姫路城はユネスコ世界遺産にも指定されている現存天守です。
いくつもの伝説と見どころと共に残される城
南北朝時代に赤松貞範が築城したのが始まりといわれ、
その後は歴代の城主によって改修・増築が繰り返され現在の姿になりました。
その規模は現存する城郭建築としては日本一を誇ります。
赤松氏の後、黒田孝高、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が城主となり、
秀吉の時代に姫山に三重の天守が築かれ、名前も姫路城に改められました。
関ヶ原の戦い後は池田輝政が、五十六階地下一階の大城郭を築き、現在に残る形にしました。
その後も本多忠政が西の丸などを増築し、複雑な縄張りが完成していきました。
平成5年にはユネスコ世界遺産に登録されました。
姫路城概要
基本データ
日本三大平山城の一つです。
別名 | 白鷺城 はくろじょう |
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別名の由来 | 天守閣群の白く美しい姿が白鷺の飛ぶ様に見えることから、その他諸説あり |
所在地 | 兵庫県姫路市 |
城地種類 | 平山城 |
縄張り形式 | 渦郭式 |
築城年代 | 1346年、1580年、1601年 |
築城者 | 羽柴秀吉、池田輝政 |
主要城主 | 豊臣氏、池田氏、本多氏、松平氏、榊原氏、酒井氏 |
文化財史跡区分 | 国指定特別史跡、国宝-大天守、東・西・乾小天守、イ・ロ・ハ・ニの渡櫓) 重要文化財74件 |
天守の築城年代 | 1609年 |
天守の形式 | 望楼型 |
天守の構造 | 連立式 五重六階地下一階 |
現在の天守の状態 | 現存 木造 |
現存する建築物 | 天守、門、櫓など |
利用案内
アクセス | JR山陽本線・山陽新幹線「姫路」駅、山陽電鉄本線「山陽姫路」駅から徒歩20分 姫路駅北口から神姫バス乗車約5分→「大手門前」下車徒歩5分 |
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開城時間 | 9:00分~16:00 ※アーリーオープン有 |
入城料金 | 大人:1000円/小中学生:300円 |
100名城スタンプ設置場所 | 管理事務所入口 |
スタンプ設置場所の開館時間 | 9:00分~16:00 |
主な関連施設 | 兵庫県歴史博物館、姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」 |
関連サイト:姫路城ご利用案内
入城前にスタンプ設置場所があります!
歴史予習
宮本武蔵の妖怪退治
木下家定が姫路城主だった頃、宮本武蔵は名前を隠し足軽奉公をしていました。
家定が城主だったのは羽柴秀吉と池田輝政の間で、1585年(天正13年)頃です。
宮本武蔵は二刀流の使い手で、巌流島での佐々木小次郎との決闘が有名ですね。


思ってた感じと違う・・・うっ・・・海老蔵・・・
そのころ、姫路城天守に妖怪が現れるという噂が広まっていました。
城の見張り番の役目をする者たちは、皆この噂を怖がっていて、
見張り番をまともにすることができない状態が続いていました。
しかし、武蔵だけが平気で夜の見張り番の役目を勤めていたことが家老の耳に入り、
名高い武芸者であることが知られるところとなり、 妖怪退治をお願いされたのでした。
武蔵は灯りを持って天守に登ります。
3階の階段にさしかかると、地響きと轟音とともに、突然すざましい炎が吹き降りてきました。
武蔵が腰の刀に手をかけ、妖怪が現れるかと身構えると、その異変はピタリと止みました。
4階でも同じことがありました。
こうして最上階まで辿り着くと、武蔵は座りこみ、妖怪が現れるのを待ちます。
やがて、武蔵がうつらうつらし始めた頃、どこからともなく武蔵を呼ぶ声が聞こえて、
目を開けると、美しい姫が現れ武蔵に語りかけました。
「われこそは当城の守護神、刑部明神なり。その方がこよい参りしため、妖怪は恐れて退散したり。よって褒美にこの宝剣を取らす。」
そしてスッと姿を消しました。
その時、武蔵の前には、白木の箱に入った郷義弘の名刀が残されていたということです。
現在は大天守最上階で、この刑部明神を祭る神社に参拝できます。

武蔵は姫路城では、家臣ではなく客分として自由を持ち、
藩主の嫡男に剣術を指導していたとも言われています。
戦国の世に翻弄された姫君:千姫
1615年「大坂夏の陣」が勃発しました。
この時、豊臣秀頼の正妻・千姫はわずか18歳でした。
千姫が秀頼の元へ嫁いだのは7歳で、それからは実母・江とは会うこともなく、
豊臣秀吉の側室で江の姉・淀殿の教育を受けて育ちました。
大坂城は徳川方に堀を埋められ味方の軍は総崩れ、豊臣方の敗北が濃厚となった時、
千姫は戦火に包まれる大坂城からこっそりと抜け出し、
徳川方に直接秀頼と淀殿の助命嘆願をしようとしました。
というのも千姫は、その時まさに大阪城を落とそうとしている徳川家将軍・秀忠の長女であり、
家康の孫娘なのです。
徳川方からの援助もあり、やっとの思いで戦火をかいくぐり父のいる敵陣まで向かった千姫でしたが、
父は娘の願いなど全く相手にする事もなく大坂城を総攻撃し、秀頼と淀殿は自害、
故郷同然の城は焼かれ、家族や長年親しんできた臣下の多くも命を落としました。
千姫はその中で一人だけ死に遅れた身を憂い、
出家して豊臣家の菩提を弔う余生を送るつもりだったといいます。
「大坂夏の陣」の後、豊臣家は滅びましたが、徳川の治世を不動のものにするため、
有力な公家や武家との関係を深めるための縁談が組まれていきます。
そして千姫は本多忠刻の元への再び嫁ぐことになります 。
本多家は、徳川にとって最古参の譜代で、本多忠政の妻は千姫と同じく、
家康の孫娘である熊姫です。
ただしこの結婚は千姫の希望だったとも言われています。
こうして、千姫は忠刻の妻となりました。
千姫の化粧料(持参金)は10万石で、この持参金を財源に姫路城には化粧櫓が建築されました。
建築当初の西の丸は今残っているものよりも規模が大きく、
7つの櫓がそれぞれ渡り廊下で結ばれていて、中央の庭に忠刻の御殿がありました。
そして、最も大きい化粧櫓が千姫に与えられました。
現在の化粧櫓では再現された千姫の居室を見ることができます。
姫路城に移った翌年、待望の第一子となる長女、続いて嫡子となる長男が生まれますが、
その幸せも長くは続きません。
長男がわずか3歳で亡くなり、その数年後には義父・忠政と忠刻が相次いで病に倒れ、
その翌々年には忠刻が31歳の若さで亡くなってしまいます。
さらにその二ヶ月後には姑・熊姫まで亡くなってしまいます。
夫・忠刻の死によって、本多家の後継は弟の政朝となり、居場所がなくなった千姫は
娘・勝姫と共に本多家を出て、江戸に移り住みます。
そして、30歳の頃には落飾し、天樹院となりました。
徳川家に帰った千姫は、徳川一族の重鎮となっていきますが、後半生は詳しくはわかっていません。

百閒廊下を奥まで行くと居室だった部屋があります。
落飾・・・髪を落として仏門に入ること。通常は出家といわれるが、
高い身分の人の出家の場合は落飾という。
皿屋敷、お菊さんの物語

こちらも姫路城で有名な物語の一つです。
小寺則職が城主だった頃、家臣の青山鉄山が城の乗っ取りを企て、 則職は危うく毒殺されそうになります。
この毒殺未遂事件はお菊が通報したために未遂に終わりましたが、
則職は一時的に城を追われ、姫路城は鉄山が支配する事になります。
その後もお菊は、引き続き鉄山の動向を探るため鉄山に仕えます。

スパイって事だね!
しかし鉄山の家臣・町坪弾四郎はお菊を怪しみ、鉄山が大切にしていた10枚の皿のうち、
1枚を隠し、紛失の罪をお菊に着せます。

お菊逃げて~~~~~!
弾四郎はお菊を自らの屋敷に連れていき、庭の松の木に縛り付けました。
さらに、以前からお菊のことが好きだった弾四朗は妾になれと言い寄ります。
お菊はこれを拒否します。
何日たってもお菊の意志は固く、ついに弾四郎はお菊を殺害して、井戸に投げ込んでしまいます。
以来その井戸から夜な夜なお菊が皿を数える声が聞こえたといいます。
見どころ
21の門
なんと姫路城にはもともと84もの門があったと言われています。
そのうち現存するものは21箇所で、
- 菱の門
- い~への門
- との一門
- との二門
- との四門
- ちの門
- りの門
- ぬの門
- 水の一門
- 水の二門
- 備前門
の16箇所が単体で重要文化財に、
- ほの門
- るの門
- 水の三門
- 水の四門
- 水の五門 → 国宝 ニの渡櫓に付属
の5箇所は櫓や土塀に付属して重要文化財や国宝に指定されています。

姫路城は菱の門からいの門、ろの門~ほの門と続いていますが、菱の門をくぐってすぐ右に行くとるの門があります。
実はこちらのほうが天守への近道ですが、敵軍が攻めてきたときにわかりずらくする為、菱の門の正面ではなく、右に進んだ所に小さく目立たないように作られています。
るの門は天守からの帰りのルートでも通る事ができます。

この、はの門への石段の坂道は、テレビドラマ「暴れん坊将軍」やNHK大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」など映画やドラマの撮影でも度々使われているところです。
ほの門は埋門で、敵が迫ってきたら門の内側から石などで通路をふさぎ、
門自体をなくしてしまうことができるようになっています。
ちなみに先ほどの、るの門も埋門になります。


ほの門をくぐってすぐ右手には油壁があります。この油壁は築地塀です。
さらにその横には水の一門が並んでいます。
築地塀・・・柱を立てそれを中心に木で骨組みを作り、それを板で挟んで、そこに練り土を突き込んで固める版築工法で作られたもの
石垣
姫路城は大きく分けて、秀吉による縄張り整備時、池田輝政による天守建築時、
本多忠政による西の丸の増設時の3度の大改修を経て現在の姿になりました。
他にも歴代の城主によって、徐々に補強修理され現在の形に完成されていった為、
石垣の積み方も様々なものがみられます。
帯郭櫓・帯の櫓の石垣は場内で最も高く、約23mほどあります。
他にも人面石、姥ヶ石、補強石垣、と面白い石垣がたくさんあります。
また築城の際にこの付近の墓地や古墳から石棺が使われており、転用石も多く見られます。

写真の姥ヶ石は、その昔羽柴秀吉が城を建てる際に、
城下に住む老婆が自分が使っている石臼を秀吉に差し出し、喜んだ秀吉はこの臼を
最も大事な天守の土台に積み込んだと言われています。
実際は天守が建築されたのは秀吉以降の時代ですので、物語という事になります。
現存天守

黒田孝高(官兵衛)が羽柴秀吉に姫路城を譲った際に、
秀吉によって姫山に三重の天守が築かれ、名前も姫路城に改められました。
関ヶ原の戦い後は池田輝政が、五十六階地下一階の大城郭を築き、現在に残る形にしました。
連立式望楼型の天守で、1609年に築城されました。
城郭検定対策

- 連立式望楼型天守
- 国宝8件
- 8年かけた池田輝政の大改修により、五重七階の天守ができた。現存天守で五重七階は姫路城と松本城のみ。
- 天守には廻縁や高欄はなく、廻縁に相当する廊下が室内にある。
- 昭和の大修理では大天守を支えるために鉄筋コンクリートの基盤が用いられた。
- 平成の大修理では、大天守から新たに窓が発見された。
- 千姫の化粧料は10万石だった。
- 姫路城内で最も高い石垣は約23m
- 最も小さい門はほの門、最も大きいのは菱の門
- 中村陸軍大佐の働きかけにより姫路城と名古屋城は取り壊しを免れた。

現存12天守ってだけあって城の知識だけじゃなくて関連する歴史の知識が問われる事があるよ!
周辺情報
男山千姫天満宮

元和7年(1621)に本多忠刻の長男がわずか3歳で死亡すると、
その死が千姫の前夫・豊臣秀頼の祟りと噂され、千姫は秀頼の霊が鎮まるよう(本多家の繁栄を願って建立したとも言われる)、
城の北西にある男山に天満宮を建立しました。
千姫が生活していた姫路城西の丸から拝礼出来るように東向きに造営されており、
千姫は長局の廊下から拝礼していたと伝わっています。

アクセス:姫路駅から神姫バスで約7分。「市之橋・文学館前」下車、北へ徒歩5分
関連サイト:男山千姫天満宮
姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」

市制100周年を記念して建造された約1万坪の日本庭園で、
7次にわたる発掘調査により、西御屋敷や武家屋敷、通路跡等の遺構が確認されました。
その屋敷割や通路の地割を活かした9つの大小庭園群、アプローチ樹林帯・広場があります。
インスタ映えスポットとしても人気があります。
アクセス: 姫路駅北口から神姫バス乗車 「姫路城大手門前」 姫路城から徒歩5分
関連サイト:姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」
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