36.丸岡城-北陸地方唯一の現存天守で4代本多家の城

丸岡城 天守閣 日本100名城
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写真 丸岡城は北陸地方唯一の現存天守です。

前期望楼型の古風な外観を持つ丸岡城

現存する天守は丸岡藩が成立した1624~43年の寛永期のもので、地震による倒壊も経験しました。

柴田勝家の甥・勝豊かつとよが1576年に築城し、勝豊以降、安井家清、青山修理亮しゅうりのすけ、青山忠元、今村盛次、本多成重以下4代、有馬清純以下8代の居城を経て明治維新に至りました。

本丸と二の丸を五角形の内堀が巡り、その外周を三の丸と外堀が囲んでいましたが、
大正中期より昭和の初めにわたり堀は埋められ、現在は本丸とわずかな堀のみ残っています。


前期望楼型の古風な外観と、石瓦が特徴的な丸岡城の魅力や歴史をまとめてみました。

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丸岡城概要

基本データ

写真 天守の形式や構造がよく出題されています。

別名霞ヶ城
別名の由来 一向一揆で丸岡城が襲撃されそうになると、天守閣の近くの井戸から大蛇が現れ、 口から霞を吐き、霞で城を包み隠して救ったという伝説による。
所在地 福井県坂井市
城地種類 平山城
縄張り形式 連郭式
築城年代 1576年
築城者 柴田勝豊
主要城主 柴田氏、安井氏、青山氏、今村氏、本多氏、有馬氏
文化財史跡区分 天守-重要文化財
天守の築城年代 1624~43年の寛永期
天守の形式 望楼型
天守の構造 独立式 二重三階
現在の天守の状態 現存 木造
現存する建築物 天守

利用案内

アクセスJR丸岡駅から 京福バス丸岡永平寺線 永平寺口駅前行「丸岡バスターミナル」下車 徒歩約10分
JR福井駅から 京福バス県立病院丸岡線/大和田丸岡線「丸岡城」下車 徒歩すぐ
開城時間 8:30〜17:00(最終入場は16:30)
入城料金 大人:450円/小中学生:150円
100名城スタンプ設置場所 丸岡城券売所前
スタンプ設置場所の開館時間 8:30〜17:00
主な関連施設 丸岡歴史民俗資料館
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歴史予習

丸岡藩の成立

関ヶ原の戦い後、結城秀康の重臣・今村盛次が丸岡城の城主となっていましたが、
久世騒動で今村一派が一掃されると、代わって本多成重が丸岡城主となりました。


久世騒動は越前騒動とも呼ばれ、百姓同士の殺人事件を発端に、
結城秀康の重臣同士の争いで本多富正とみまさと今村盛次が序列を巡って競い合い、
武力衝突にまで発展したお家騒動です。

この今村氏に代わって丸岡城主となった本多成重は、
徳川家康の家臣の中でも武名高い「鬼作左」の異名をもつ本多作左衛門重次さくざえもんしげつぐの嫡男です。

本多作左衛門重次が長篠の戦いの戦場から妻に宛てて手紙を送った話はとても有名で、
丸岡城天守閣石垣のそばに建つ一筆啓上いっぴつけいじょう石碑にはその手紙が刻まれています。
石碑には「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」と刻まれていますが、
原文は「一筆申す 火の用心 お仙痩さすな 馬肥やせ かしく」だったそうです。
お仙は成重のことです。

丸岡城 一筆啓上石碑
一筆啓上石碑

ちなみに久世騒動の本多富正は成重の従兄に当たる人です。
成重は老臣本多富正と共に、18歳だった結城秀康の嫡男・松平忠直の補佐をするため
福井藩に付属させられ、「両本多」と称されました。

成重は大阪の陣で功績をあげ、特に夏の陣では真田信繁(幸村)の軍を破るなどの活躍をし、
従五位下飛騨守に叙任されます。


その後成重と忠直の関係は悪化しますが、1624年には成重は福井藩から独立し、
譜代大名となりました。

幕府に対して不満があった忠直が、酒色におぼれて参勤交代を怠たったり、家臣を殺害したり、やりたい放題するようになって、成重の注意も全然聞いてくれなかったから関係が悪化したって言われているよ。


これにより4万6300石の本多氏丸岡藩が成立し、以降4代重益まで続きました。

人柱お静伝説

そんな丸岡城ですが、築城の際の伝説があるようです。
それが人柱お静伝説です。

一向一揆に備えるために築かれた丸岡城ですが、築城の際に天守閣の石垣が何度も崩れるなど、
なかなかスムーズに築城する事ができませんでした。


そこで柴田勝豊は天守閣に人柱ひとばしらを入れることにします。
そして、子どもと貧しい生活をしていたお静が息子のひとりを侍に取り立ててもらう約束をし、人柱となりました。

補足

人柱・・・築城・架橋・堤防工事などの為に、生きている人間を神への生贄とするため、水や土のなかに埋めること。 また、その埋められた人。

その後、1576年に丸岡城は完成しましたが、
築城のきっかけを作った織田信長が本能寺の変で没すると、
同1582年に、勝豊は近江長浜城(滋賀県)に移ることになります。
そのため、お静との約束は果たされませんでした。

その後、田植えや藻刈りの季節になると、降水量が増加し、水があふれました。
それを人々は、お静の霊による所業だと考え、この時期の雨を「お静の涙雨」と呼ぶようになり、
小さな祠を建てました。「お静の供養碑」とは、天守閣の登り口にあります。

丸岡城は日本最古の現存天守なのか

現存天守の中で最古である可能性が考えられているのは、

愛知県の犬山城
長野県の松本城
そして福井県丸岡城の3城となります。

これまでは丸岡城が日本最古の現存天守とされてきました。

ところが令和3年、愛知県犬山市教育委員会が、
年輪年代法による年代測定調査によって犬山城の築城は1585~1590年頃のもので、
現存する最古の天守であることが科学的に分かった、と発表しています。

松本城はというと、大天守と乾小天守、渡櫓の3棟は、
文禄2~3年(1593~94)にかけて造られ、
辰巳附櫓と月見櫓は、寛永10~15年(1633~1638)に築造された
ものだと考えられています。

そして丸岡城についてですが、
柴田勝豊が築城したとする「1576年(天正4年)説」と、
初代丸岡藩主・本多成重が入城後に築城したとする「1613年(慶長18年)以降説」がありましたが、
平成31年(2019)3月、丸岡城が建てられたのは江戸時代の
寛永年間(1624~44年)
である事が坂井市教育委員会の調査によって判明しました。

よって現在は、現存する日本最古の天守は犬山城と考えられています。

しかし近年の調査によってこれまでの通説を覆す結果が出ている事から、
今後の調査によってまた最古が入れ替わるかもしれません。

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見どころ

現存天守

丸岡城天守閣を下から眺めた様子
丸岡城

寛永年間に造られた天守は現存12天守として知られています。
二重三階、高さ約12mの独立式望楼型天守で屋根は石瓦で葺かれていて、
これは現存天守では唯一の事例です。
石瓦のうち2割ほどは笏谷石しゃくだにいしが使われています。笏谷石は火山礫凝灰岩かざんれきぎょうかいがんで薄青色が特徴です。

天守台の石垣は野面積みで、天守台石垣南側では墓石と思われる転用石を見る事ができます。

丸岡城天守台南側の転用石
転用石

1948年(昭和23年)の福井大地震で天守は倒壊しましたが、
部材を7割以上再利用し1955年(昭和30年)に修復再建されました。
福井震災で落下した鯱は現在天守へ登る階段の横で見る事ができます。

丸岡城天守閣階段横の鯱

内部は靴を脱いでスリッパで最上階まで上がる事ができるんだけど、階段がとっても急だから気を付けてね!

丸岡城内部の急な階段
内部階段
丸岡城 天守からの眺め
天守からの眺望

城郭検定対策

城郭検定マーク
  • 北陸唯一の現存天守で、独立式天守
  • 前期望楼型天守で、安土桃山の古風な外観、板見張りが特徴的
  • 国宝には指定されていない
  • 屋根は寒さで割れないように石瓦を使っており、これは現存天守でも唯一の事例
  • 1576年柴田勝豊によって築城された
  • 本多作左衛門が妻にあてて「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」と書き送ったが、このお仙とは本多作左衛門の嫡男で、後に丸岡藩初代藩主となる本多成重の幼名・仙千代を指している。
  • 現存する最古の天守と考えられていたが、2015〜18年度の調査によって最古ではないと結論付けられた。

現存12天守ってだけあって過去の城郭検定にも外観や天守についての問題が何度も出題されてるよ!

周辺情報

坂井市丸岡歴史民俗資料館

丸岡城 歴史民俗資料館の外観
歴史民俗資料館

本多氏・有馬氏など歴代城主ゆかりの品が展示されています。
共通券で丸岡城に登城できますが、こちらで入場券の購入はできず、
発券所で入場券購入の後、丸岡城に入城と資料館への入館ができます。

関連サイト:坂井市丸岡歴史民俗資料館

本光院本多家の墓所

本光院(本多家の墓所)の正面
本光院

本多家歴代墓所。有馬家が丸岡藩の藩主になった際に現在の場所に移され、境内も縮小されました。
境内には始祖である本多重次をはじめ、初代藩主成重、2代藩主重能しげよし、3代藩主重昭しげあきの墓碑があります。

アクセス:福井県坂井市丸岡町巽3-3
丸岡城から徒歩6分

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