48.松坂城-豪商の町「松阪」を生んだ蒲生氏郷の城

松坂城虎口の石垣 日本100名城
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写真 蒲生氏郷と穴太衆によって安土城と似た縄張りや建物構成の城が築かれました。

織田信長の寵愛を受けた築城の名手蒲生氏郷による城

松坂城は戦国武将で、築城の名手としても有名な
蒲生氏郷がもううじさとが、四五百森よいほのもりに築城した平山城です。

氏郷は当初、松ヶ島城を居城としていましたが、松ヶ島城は交通が不便な上に、
大名の居城としては手狭だった為、天正16年に松坂城を築城しました。

松坂の名の由来はいくつか説がりますが、

「松」は、吉祥の木とされ縁起が良いからという説や、
蒲生氏郷の出身地にあった「若松の森」からとったとする説が有名で、

「坂」は大坂城からとったと言われています。

氏郷は、松ヶ島の町民を移住させたり、有力な商人を松阪に移し、
楽市楽座の制度を定めて同時に城下町の建設にも力を注ぎました。

氏郷が会津へ移封の後は、服部氏、古田氏が松阪の領主となり、
古田氏の時代に松坂城天守は台風で倒壊しました。

古田氏が石見国浜田城に転封となった後は、南伊勢は紀州藩の藩領となり明治維新を迎えます。

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松坂城概要

基本データ

写真 築城者の蒲生氏郷は要チェック!

別名松阪城
別名の由来
所在地 三重県松阪市
城地種類 平山城
縄張り形式 梯郭式
築城年代 1588年
築城者 蒲生氏郷
主要城主 蒲生氏、服部氏、古田氏
文化財史跡区分 国指定史跡
天守の築城年代 1588年
天守の形式 望楼型
天守の構造 連結式 三重五階
現在の天守の状態
現存する建築物 米蔵

利用案内

アクセスJR紀伊勢本線・近鉄山田線「松阪」駅から徒歩約15分
開城時間
入城料金
100名城スタンプ設置場所 松阪市立歴史民俗資料館、本居宣長記念館、松阪駅観光情報センター、豪商のまち松阪観光交流センター
スタンプ設置場所の開館時間 民俗資料館9:00~16:30(10月から3月は9:00~16:00)
本居宣長記念館9:00~17:00 (最終入館時間16:30)
主な関連施設 御城番屋敷

関連サイト:本居宣長記念館 豪商のまち松阪観光交流センター

補足

松阪市立歴史民俗資料館・本居宣長記念館が休みの日は松阪駅観光情報センター・豪商のまち松阪観光交流センターでスタンプを押すことができるそうです。

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歴史予習

豪商のまち松阪が生んだ三井グループ

松坂城を築き松阪のまちを作った蒲生氏郷は、松ヶ島城下から蔵方、
近江日野や伊勢大湊からは有力商人を呼び寄せ住まわせたり、
楽市楽座により商業の発展に力を注ぎました。

その結果、松阪は全国からさまざまなものが集まる交流拠点として商業が栄えていきました。


松阪商人は江戸へ進出し、三井高利たかとしや長谷川次郎兵衛、小津清左衛門などは
日本屈指の富商となり、江戸では伊勢商人と呼ばれました。

井原西鶴が「大商人の手本なるべし」と記した三井高利は、
三井グループの祖で、52歳の時に越後屋を開くとともに、京都にも呉服仕入れ店を持ちます。

当時の呉服店は、あらかじめ注文をとって回り品物を届けるか、
直接商品を持って得意先を回り、支払いは年に2回というのが一般的でした。

しかし高利は、店前売たなさきうりと呼ばれる現在のような店頭販売や特価品販売、
卸売り等画期的な商法を次々と編み出し、
掛け売りが通例であった時代に現金掛け値なしを掲げました。

1686年には両替商を開業し、将軍家の呉服御用達や幕府の御為替御用達に命じられるまでになります。

江戸時代の中期には、三井家は呉服店や両替商を15店も持ち、従業員数は1100人を超えたとされ、
高利と息子たちは後世の三井グループの基礎を築きました。

三井グループ発祥の地
三井家発祥地

直臣の誇りを守った田辺与力

徳川家康が横須賀城に派遣した家臣達は横須賀組、横須賀党などと呼ばれ、
勇猛果敢な戦いぶりで知られていました。

戦国時代が終わると、元和5年(1619)家康は彼らの子孫を徳川頼宜よりのぶの家臣として、田辺に遣わせました。
田辺は紀州の要地で、彼らは代々藩主直属の家臣となり田辺に居住し、田辺与力たなべよりきと呼ばれました。

補足

徳川頼宜・・・家康の十男で紀州徳川家の祖。初代紀州藩主

その後230年ほど経ち、安政2年(1855)に突然、17箇条の達しを受け、陪臣と決められました。

補足

直臣・・・藩主直属の家臣
陪臣・・・藩主の家臣の家来

これに不満を持った田辺与力たちは不満を訴えるも聞き届けられることはなく、
ついに藩士の身分を捨てて浪人となりました。

しかしその後も紀州藩復帰の嘆願を続けました。

その結果、紀州徳川家の菩提寺である長保寺ちょうほうじの支援もあり6年の浪人生活の後、
文久3年(1863)に松坂城の御城番として藩に復帰しました。

御城番屋敷の石畳 左右に建物が並ぶ
御城番屋敷石畳

松坂城の裏門跡と搦め手門を結ぶ道の両脇には御城番屋敷が残されています。

当初は道の両側に10戸ずつ、計20戸が並んでいましたが、1戸は解体されています。

現存する武家屋敷群としては全国で最大規模のもので、重要文化財に指定されています。

屋敷は現在もこの紀州藩士の子孫の方が住んでいたり、維持管理をされています。
そしてなんと19戸のうち半数以上が借家として貸し出されているそうです。

またこのうち1戸は一般公開されています。

松坂城御城番屋敷内部 居室
御城番屋敷内部
松坂城御城番屋敷内部 天井
御城番屋敷内部

御城番屋敷群にある米蔵は江戸時代末期に隠居丸に建てられていたもののひとつで、
現存する唯一の建造物です。明治初期に現在の位置に移築されました。

松坂城の現存の米蔵
米蔵
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見どころ

石垣

築城当時の石垣は、近江から呼び寄せた穴太衆あのうしゅうという技術集団によるものであると言われています。

松坂城築城当初の石垣は野面積みで、
江戸時代の石垣修復時に積み直された石垣は打込み接ぎや算木積みが使われています。

本丸石垣 築城当時の野面積み
本丸石垣
本丸石垣の平成に修理された石垣
本丸石垣

この2枚の写真はすぐ隣の石垣を撮影したものですが、算木積みの違いが一目瞭然です。

登城道は高い石垣や門に囲まれた空間があり、枡形構造になっています。

特に搦手口は、天守に至るまでに枡形が四度も続き、
高い石垣と石段による複雑な縄張りになっています。

松坂城搦手口
裏門側

築城の際には、松阪近郊の石という石が集められたといわれており、
中には、古墳時代の石棺の蓋も混じっていました。

今も天守台や鐘ノ櫓跡付近で石棺の蓋を見ることができます。

天守台の転用石の石棺
天守台の転用石 石棺

藤見櫓跡の向かいの本丸側石垣には、当時の排水口と思われる穴があります。

富士見櫓跡の向かいの本丸側石垣にある排水口
石垣の排水口

本居宣長記念館/鈴屋

本居宣長もとおりのりながは松阪の商人の家に生まれますが、商売に関心はなく、
28歳で医師を開業し、そのかたわら自宅で日本の古典学の研究をしました。

34歳の時、宣長は賀茂真淵かものまぶちに入門する事になります。

伊勢神宮参宮のために松阪に来ていた真淵に会う為、真淵のいる旅宿を訪れ、
古事記の注釈について指導を願いました。

この時の対面は後に松阪の一夜と呼ばれ、宣長が真淵と会った新上屋という旅宿の跡地は
石碑のみですが、現在のよいほモール商店街沿いにあります。

真淵に入門すると文通による指導を受けながら古事記の研究に取り組み、
ついに69歳にして古事記伝44巻を完成させました。

新上屋跡に建つ石碑
新上屋跡石碑

本居宣長記念館には、本居宣長に関する貴重な資料が収蔵されています。

収蔵品は宣長の著書、蔵書、遺品や門人の著書などを中心に重要文化財1949点、県有形文化財103点にものぼります。

本居宣長旧宅の鈴屋の外観
本居宣長旧宅:鈴屋

鈴屋は宣長の旧宅2階の書斎を指します。
この家では宣長が12歳から78歳で亡くなるまで住んでいました。

2階部分に行く事はできませんが、家の向かい側の石垣から部屋の中を覗くことができるそうです。

現在隠居丸跡に移築されている鈴屋ですが、伊勢街道近くで本居宣長宅跡を見ることができます。

本居宣長宅跡
本居宣長宅跡

関連サイト 本居宣長記念館

城郭検定対策

城郭検定マーク
  • 江戸時代の資料によると正保年間に台風で天守が倒壊した。
  • 二の丸には紀州藩の陣屋がおかれ、紀州藩領として明治維新を迎えた。
  • 天守台は野面積み
  • 蒲生氏郷が築城し、信長に倣い楽市楽座を設けたり、安土城と似た縄張りや建物構成の城だった。
  • 松坂城内には現存する建物はない。
  • 田辺与力の御城番屋敷は、現存する武家屋敷群としては全国で最大規模で、重要文化財に指定されている。

蒲生氏郷は白石城や会津若松城でも有名な人だね!

周辺情報

旧長谷川治郎兵衛家

旧長谷川治郎兵衛家
旧長谷川治郎兵衛家

松阪商人の旧宅です。

長谷川家は江戸で木綿問屋を創業しましたが、主人は家族とともに松阪に住みました。
松阪の本宅は徐々に敷地を広げ、30以上の部屋がある母屋と5棟の蔵は
17世紀後期から20世紀初期に順次建てられたものです。
裏手には広い日本庭園と茶室があります。

表の間から見える木塀は、実は取り外す事が可能で、「貴人口」と呼ばれ、
地位や家柄が高い人はこの入口から入ってもらったそうです。

旧長谷川治郎兵衛家の貴人口を道側から見たところ
旧長谷川治郎兵衛家の貴人口外観

通り側から見ても全くわからないよ!

旧小津清左衛門家

旧小津清左衛門家の外観
旧小津清左衛門家

こちらも松阪商人の旧宅です。

小津清左衛門家は主に紙問屋を営んでいました。

現在の敷地は全盛期の約5分の3ほどで、内蔵は展示室となっており、
のれんや貴重な資料が展示されています。

旧小津清左衛門家内部から見た庭
旧小津清左衛門家内部
旧小津清左衛門家内部
旧小津清左衛門家内部

原田二郎旧宅

原田二郎旧宅
原田二郎旧宅

原田二郎は実業家で知られていますが、「天下の富は一家の私すべきものではない」という信念のもと、
全財産を投じて財団法人原田積善会を設立しました。

現在は公益財団法人 原田積善会として、設立以来全国の社会公益事業に対して
様々な助成活動を続けています。

原田二郎旧宅内部には原田二郎に関する展示物の他、
大隈重信から贈られた座布団も無造作に展示してありました。

原田二郎旧宅に展示されている大隈重信から贈られた座布団
大隈重信から贈られた座布団

うっかり座らないように気を付けてね!

庭から裏手に行くと松坂城堀跡があります。

原田二郎旧宅裏にある松坂城の堀跡
原田二郎旧宅裏にある松坂城の堀跡

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