【三大築城名人】藤堂高虎が作った城、建築の特徴解説!高虎の生涯

藤堂高虎の顔 築城名人図鑑
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藤堂高虎は、加藤清正、黒田官兵衛と並んで三大築城名人といわれています。

また、高虎の建築技術は多くの城で採用され、徳川幕府の城のスタンダードとなりました。

そんな高虎の生涯とかかわった城一覧、建築の特徴をまとめました。

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藤堂高虎の生涯

没落した小領主の家に生まれる

もともと高虎の家系は近江鯰江なまずえ城主・三井乗綱の家系でした。
江戸の豪商三井家とも近縁と言われています。

高虎の父・虎高もまた優秀な人材で、
甲斐の武田氏や越後の長尾氏に仕えたこともあるそうです。

虎高は近江に帰った後、近江国の有力土豪である藤堂家に婿養子として入ります。

しかし藤堂家は戦国時代に没落し、農民にまで身分を落としていました。
虎高が婿養子となった頃にはすでに犬上郡数村を支配するのみまで没落していたといいます。

こうして高虎は、近江国犬上郡藤堂村の土豪・藤堂虎高の次男として生まれました。

渡り奉公

高虎の初陣は、14歳の時に近江の浅井長政に仕え、
1570年、姉川の戦いに足軽として参戦する事からはじまります。


姉川の戦いは、朝倉家と織田家の戦いで、この時浅井氏は朝倉氏に加勢しました。

この戦いで敗れた朝倉氏は自害、浅井氏も織田氏に何度も追撃され、
ついには1573年、小谷城の戦いで浅井長政が敗れて滅ぼされます。

奉公先を失った高虎でしたが、続いて浅井氏の旧臣で、山本山城の阿閉貞征あつじさだゆきに仕えるようになります。
阿閉貞征は浅井氏が滅ぼされた小谷城の戦いの時に、信長に内応し、織田に降参した後は朝倉攻めにも参加していた人物です。

さらに次に同じく浅井旧臣で高島郡の磯野員昌いそのかずまさの家臣となりました。
磯野員昌は姉川の戦いの後、織田に降伏すると、信長の甥・信澄を養嗣子とさせられた上で、
佐和山城と引き換えに、近江高島郡を与えられました。

この頃の高虎は、短気で、人間関係では問題を起こしたり、なかなか長続きしていません。

年齢的には17-18歳頃だから反抗期だったのかも・・・

その後、浪人となるなどしましたが、
今度は磯野員昌の養嗣子となった津田信澄つだのぶすみ(織田信澄)に仕えます。

補足

浅井長政が没したのが1573年で、信澄には2年ほど仕えたということなので、
次に秀長に仕えるのが1576年と考えると
わずか1年程度の間に阿閉氏と磯野氏に仕えた後、浪人生活もしていた事になります。

弘治2(1556)年近江の土豪の家に誕生
元亀元(1570)年姉川の戦い
天正元(1573)年小谷城の戦い
ここまでの年表

羽柴時代

1576年、高虎は羽柴秀長に仕えることになります。

その間に秀長と各地で戦をし、さまざまな城の築城に関わることで築城術を身に付けていったと言われています。

補足

羽柴秀長は豊臣秀吉の弟で、内外の政務や軍事面でも手腕を発揮し、
天下統一に貢献した、秀吉の右腕ともいえる存在でした。

1591年、主君・秀長が秀吉の天下統一を見届けた後、病で亡くなると、
高虎は一度は出家して高野山に入ります。
しかし高虎の才能を惜しんだ豊臣秀吉の説得により、結局伊予国板島七万石の大名として復帰します。

徳川時代

1598年、秀吉が亡くなると、高虎は以前から親交のあった徳川家康に仕えるようになります。

高虎は外様ながらも、既に家康の側近の位置にありました。

関ヶ原の戦いで功績をあげ、その後も1614年に大坂冬の陣、翌1615年の夏の陣では、
豊臣家の旧臣でありながら、徳川方として参戦し功績をあげます。

そして大坂の陣の後は32万石にまで出世しています。

『徳川実紀』によると、家康は「国に大事があるときには、高虎を一番手とせよ」と言ったほどに、高虎を信頼し、重宝しました。

1616年、家康が病に倒れますが、その後は二代将軍徳川秀忠に仕えます。

そして遂には、徳川家の対外交渉を担うほどに出世します。

しかも高虎は津藩のほか、幕府の命令で会津藩蒲生家、高松藩生駒家、熊本藩加藤家の執政を行う立場にまでなっていました。
これらを合算すると、高虎が統治を行なっていた領地は160万石余りにもなります。

1630年、高虎は江戸の藩邸にて死去しました。

天正4(1576)年羽柴秀長に仕える
慶長3(1598)年秀長死去、徳川家康に仕える
慶長5(1600)年関ヶ原の戦い
慶長13(1608)年初代津藩主となる
慶長20(1615)年大阪夏の陣
元和2年(1616)年徳川秀忠に仕える
寛永7(1630)年死去
ここまでの年表
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かかわったとされる城一覧

時期所在地100名城選定状況内容
天正11(1583)年出石城兵庫県続日本100名城
天正13(1585)年大和郡山城奈良県続日本100名城縄張り
 〃駿府城静岡県日本100名城縄張り
天正14(1586)年京都聚楽第京都府縄張り
天正15(1587)年粉河城(猿岡山城)和歌山県
天正17(1589)年赤木城三重県続日本100名城
文禄3(1594)年伏見城京都府助工
慶長元(1596)年宇和島城愛媛県日本100名城改築
慶長2(1597)年伊予大洲城愛媛県日本100名城改修
 〃順天倭城韓国
慶長6(1601)年膳所城滋賀県助工及び縄張り
 〃甘崎城愛媛県
 〃灘城兵庫県
慶長7(1602)年今治城愛媛県日本100名城
 〃伏見城京都府修理助役
慶長11(1606)年江戸城東京都日本100名城大修理の縄張り
慶長13(1608)年津城三重県続日本100名城大改築
 〃伊賀上野城三重県日本100名城大改築(縄張り)
慶長14(1609)年篠山城兵庫県縄張り
慶長15(1610)年亀山城京都府普請の手伝い
 〃名古屋城愛知県日本100名城縄張り
元和5(1619)年二条城京都府日本100名城縄張り
 〃和歌山城和歌山県日本100名城石垣工事
元和6(1620)年大坂城大阪府日本100名城修復
元和9(1623)年淀城京都府普請の手伝い

いつ頃、どの程度かかわったかはっきりしないものもありますが、
高虎のかかわった城をまとめました。

膳所城、江戸城、大坂城、名古屋城、二条城、篠山城など、
徳川政権下に天下普請で造られた城のほとんどに高虎が参加しています。

城以外には元和2(1617)年に日光東照宮、寛永5年(1628)に京都・南禅寺に三門を造ったりもしています。

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高虎の建築の特徴

四角い曲輪

戦国時代の城の曲輪は複雑な城壁の配置によって側面攻撃をしたり、
侵入経路を何度も曲げて複雑にしていました。

しかし高虎の城は
単純な縄張りによって建築難易度を下げ費用を抑えたり、デッドスペースを減らしました。

丹波笹山城之絵図『正保城絵図』国立公文書館蔵
丹波笹山城之絵図『正保城絵図』国立公文書館蔵
『二条御城中絵図』(京都大学附属図書館所蔵)
『二条御城中絵図』(京都大学附属図書館所蔵)
今治城城内案内図
今治城城内案内図
補足

曲輪・・・城を構成する一区画の事。

直線的な高石垣

伊賀上野城の勾配のない高石垣
伊賀上野城

高虎は、反りをなくすことでより強固な石垣を築き、強固になった分、高い石垣を築きました。

中でも、三重県にある伊賀上野城の本丸の石垣は約29.7mもあり、
これは大坂城に次ぐ、日本で2番目に高い石垣となります。

伊賀上野の高虎による高石垣
伊賀上野城
補足

反った石垣は「武者返し」、「扇の勾配」、「宮勾配」などと呼ばれ、 石垣を登りづらくしました。
一方、高虎の作るような上部から下部にかけて直線的な石垣を、「寺勾配」といったりします。

広大な水堀

中世の城は山城が多く、水を引くことが難しかった為、深い空堀がよく用いられました。

徳川の時代になり少しずつ平和な時代になると、城下町の整備を前提として、
交通面なども考慮した平城に変わっていきます。
それに伴い水堀も増えていきました。

当時の戦の武器と言えば刀や弓が主流でしたが、高虎は弓矢の射程に入らない広い堀を作ろうと考えたのです。

広い水堀が特徴的な高虎の城としては、愛媛県の今治城が有名です。
日本三大水城とも言われ、海水を引き入れている珍しい水堀です。
他にも、現存12天守の一つ、宇和島城も海を利用した水城でした。

今治城の広大な水堀
今治城

総多門櫓と枡形門

高虎の城は単純な曲輪になっていて、その面では防御性能が落ちてしまいます。

それを補う為に、高虎は内枡形の門と多門櫓を多用しました。

城の出入り口を枡形と呼ばれる四角形の空間にして、
城門や多門櫓、塀で囲む事で、侵入した敵兵を周囲から一斉に攻撃することが可能になります。

そして高虎がよく用いたのが、その中でも内枡形という形状で、
枡形が本丸などの曲輪の内部に置かれています。

本丸などの曲輪から飛び出した形状をしている外枡形と比較すると、
枡形が城内にあることで、3方向から攻撃することが可能になります。

さらに防御を固める為に、門や隅部以外の曲輪の外周のほぼ全てにも多聞櫓を設置しました。

外枡形
外枡形
内枡形
内枡形

層塔型天守

天守の形には望楼型天守と層塔型天守の二つがありますが、高虎が考案した層塔型天守は、
第一層から同じ形の層を小さくしながら最上階まで順に積み上げていく構造の天守です。

それに対して望楼型天守は、入母屋造りの建物の上に物見の建物を乗せる構造です。

構造が単純なので、柱や梁のつなぎ目が少なく頑丈に造る事ができる他、材木を規格化し、前もって加工しておくことができたので、工期が短縮できる上に建築コストが抑えられました。

今治城の層塔型天守
層塔型天守(今治城)
犬山城の望楼型天守
望楼型天守(犬山城)

平地に城を築く

前述の通り、江戸時代に入り、戦国時代と比べて平和な時代になると、山城から平城にかわっていきます。

これは高虎の特徴というより時代による変化ですが、
さらに高虎はそれに加えて、城下町の整備をし、発展させる事に力を入れました。

これまで、武士の多くは、普段は農村に住んで合戦の際に雇われる事が多かったのですが、
高虎は武士を城下に集めて住まわせました。

1608年、高虎が転封された津では、城を中心に北・西・南の三方、城下の約8分の5を武家屋敷に、
残りに町屋を置きました。さらに、伊勢街道を城下町に引き入れ、宿場町も繁栄させました。

152.津城-藤堂高虎が大改修した女武者伝説の残る城
織田信包が築城し、三大築城名人として有名な藤堂高虎が大改修しました。関ヶ原の前哨戦の舞台ともなった城1570年に織田信長の中伊勢侵略の際に、信長が長野家へ養子として送り込んだ弟・織田信包のぶかねが築城した城で...

まとめ

高虎が自ら主家を離れた時の主君を見ていくと、

阿閉貞征は山崎の戦いで秀吉に敗れて滅亡
磯野員昌は信長の意思に背いて領地を取り上げられ、後の時代では磯野氏の一族は高虎に仕える身になっています。
織田信澄は本能寺の変の際に、謀反の容疑をかけられて滅ぼされていますし、
秀長没後の豊臣家もまた徳川家によって滅ぼされました。

高虎はもしかしたら主家を見極めて立ち回っていたのかもしれません。

そんな高虎ですが、豊臣秀長に仕えて以降は、奉公先を転々とする事もなく定め、
主君からも信頼される良い家臣だったようです。

特に建築技術は、その才能を買われ、多くの城にかかわってきました。

徳川時代の城では高虎の建築技術がスタンダードとなっています。

参考サイト

国立公文書館 デジタルアーカイブ

京都大学貴重資料デジタルアーカイブ


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