(番外編)宇都宮城‐吊り天井の伝承が残る日光東照宮参拝の為の宿泊所

宇都宮城に外観復元された清明台櫓 その他の城
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栃木県にある関東七名城のうちの一城

築城は平安時代まで遡り、藤原氏によって築城されたと伝えられています。

江戸時代には、本多正純まさずみによって将軍・徳川秀忠の日光東照宮参拝の際の宿泊施設として改修されました。

その頃には清明台櫓せいめいだいやぐらを代用し事実上の天守としていたとみられています。

戊辰戦争では新政府軍と旧幕府軍の激しい攻防が繰り広げられた舞台でもあります。

その後、建物の多くは戊辰戦争で焼失したり、払い下げとなり失われ、
堀や土塁も埋められて、当時の面影を偲ぶものはほとんどなくなってしまいましたが、
近年一部が外観復元され、一般に公開されています。

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宇都宮城概要

基本データ

写真 100名城には選定されていませんが、城郭検定に出題された事がある城です。

別名亀ヶ岡城
別名の由来
所在地 栃木県宇都宮市
城地種類 平城
縄張り形式 輪郭式と梯郭式
築城年代 平安時代後期
築城者 藤原円宗もしくは藤原秀郷
主要城主 宇都宮氏、本多氏、奥平氏、戸田氏
文化財史跡区分
天守の築城年代 1619年
天守の形式 二層二階
天守の構造 独立式
現在の天守の状態 平成に二層二階の櫓が復元
現存する建築物

関連サイト:「よみがえれ!宇都宮城」市民の会

利用案内

アクセスJR宇都宮駅 関東バス市内循環線⌈宇都宮城址公園入口⌋下車 徒歩2分、もしくは駅から徒歩20分
東武宇都宮駅 東野バス⌈本丸西通り⌋または⌈城址公園南⌋下車 徒歩すぐ、もしくは駅から徒歩10分
開城時間 土塁上と櫓、宇都宮城ものしり館、まちあるき情報館、清明館歴史展示室は9時~19時
入城料金
100名城スタンプ設置場所
スタンプ設置場所の開館時間
主な関連施設 宇都宮城ものしり館(土塁内部)、まちあるき情報館(土塁内部)、清明館歴史展示室
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歴史予習

長い歴史の中で多くを経験した城

平安時代に、宇都宮氏の祖・藤原宗円ふじわらのそうえんは前九年の役で功績をあげたことで、
元々宇都宮に鎮座していた宇都宮大明神の座主となり、鬼怒川一帯の支配権を与えられました。

そして宇都宮城を築くと、それ以来530年に渡って宇都宮氏は、
国司・守護に任じられ、宇都宮城は政治的な本拠地であるとともに、居城となりました。

戦国時代後期には後北条氏や、家臣である壬生氏や皆川氏の侵攻を受けることもありました。

補足

宇都宮氏や後北条氏、皆川氏の宗家である長沼氏は、関東八屋形とされ、
彼らは守護不入が認められるなど、自領土内で強力な支配権を持つ関東の有力大名でした。

宇都宮仕置では、豊臣秀吉に謁見するため奥州の大名らが宇都宮城に参城し、その舞台になりました。

宇都宮氏はというと、天正13年(1585年)頃には後北条氏の侵攻に対抗すべく、本拠を宇都宮城から多気城たげじょうに移していました。

補足

宇都宮仕置・・・小田原征伐によって東国を制圧して天下統一を遂げた豊臣秀吉が、
関東および奥州の諸領主に対して、宇都宮城に滞在し、戦後措置をとった。


宇都宮仕置の後、宇都宮氏は宇都宮城に戻り、
さらにその後羽柴姓を授かるなど、秀吉との仲は良好と思われていましたが、
慶長2年(1597年)に突如改易され、備前国に配流となります。

慶長3年(1598年)、宇都宮城には蒲生秀行が18万石で入り、日野町や紺屋町を造成して宇都宮城下の商業整備を進めました。

その後何度か城主の入れ替わりを経て、
江戸時代になり本多正純が宇都宮に入ると、宇都宮城と城下の大改修をしました。

正純は縄張りを拡張して新たな郭を設けたり水堀や土塁を作り、近世城郭へと整備しました。
さらに、城下の整備、日光街道と奥州街道の整備、城内に将軍宿泊所となる御成御殿を建設するなど、
日光参拝に関する設備も充実させていきました。

その後、奥平氏、松平氏、阿部氏、など譜代大名が城主となり、江戸時代後期には戸田氏が入り幕末を迎えます。

1868年、戊辰戦争が起こると、大鳥圭介や新撰組の土方歳三ら率いる旧幕府軍と新政府軍との激しい攻防の舞台となり、
宇都宮城の建造物は藩校修道館などを残して焼失しました。

これは宇都宮戦争と呼ばれ、宇都宮城下の8割が焼失したと言われています。

宇都宮城には一時旧幕府軍が入りますが、すぐに新政府軍に奪還され、
これ以降、対会津戦争の拠点となり、板垣退助をはじめ東山道軍の幹部等が駐屯し、
宇都宮藩兵も新政府軍の一部隊として転戦しました。

明治には城郭一帯が民間に払い下げられ、昭和には大きな水堀もすべて埋め立てられました。
平成19年には宇都宮城本丸の一部が外観復元され、宇都宮城址公園として開園し、公開されています。

宇都宮城釣天井事件(吊り天井の伝承)

吊り天井の伝承とは、本多正純が、3代将軍・徳川家光の暗殺を企て、
宇都宮城に釣天井を仕掛けたことにより、本多家は改易、正純が流罪となったというものです。

この伝説には元になった話があります。

それが宇都宮城釣天井事件です。

正純の父・本多正信は徳川家康の側近であり、家康からの信頼は厚く、友とまで言わしめた人物でした。

家康と正信が相次いで没すると、正純は2万石を加増されて、秀忠付の老中に任じられました。
しかし、正純は先代からの宿老である事で権勢を誇り、次第に秀忠や秀忠の側近から孤立するようになります。

元和5年(1619年)、福島正則の改易後、正純は亡き家康の遺命であるとして、
奥平忠昌おくだいらただまさを下総古河藩5万3000石へ加増・移封させ、自身も小山5万3000石から下野宇都宮15万5000石へ加増しました。

正純は忠昌を自分より格下の下総古河へ転封させちゃったんだね。

これにより、正純は加納御前かのうごぜんら奥平家や、父の代から因縁のあった大久保家と縁の深い人達からも
反感を買うことになってしまいます。

補足

加納御前は徳川家康の長女・亀姫の事で、秀忠の姉です。
さらに下総古河へ移封された奥平忠昌の祖母で、加納御前の娘は大久保家の嫡男の正室でした。

元和8年(1622年)、秀忠の日光東照宮参拝の為、正純は御成御殿おなりごてんを造ります。

また、幕府の意向で宇都宮城に天守は設けず、2層2階の清明台櫓を天守の代わりとしました。

しかし秀忠が日光へ赴くと、加納御前から「宇都宮城の普請に不備がある」という密訴があった為、
予定を変更して壬生城みぶじょうに宿泊し、江戸城へ帰還します。

その後秀忠は、宇都宮城の寝所に釣天井を仕掛けて秀忠を圧死させようと画策したなど、
11の罪状嫌疑で、正純から所領を召し上げ、出羽由利郡に5万5000石を与えました。

謀反に身に覚えがない正純はその5万5000石を固く辞退し続けましたが、
逆に秀忠は怒り、本多家は改易となり、正純自身は流罪となりました。

後に正純は1000石の捨て扶持を与えられ、73歳で寂しく生涯を終えたそうです。

補足

実際には宇都宮城に釣天井の仕掛けは存在せず、正純謀反の証拠は何も無かった為、
正純を疎ましく思っていた諸大名や秀忠自身、加納御前の怨みによって起こされた事件の可能性も考えられています。

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見どころ

復元された遺構

宇都宮城に外観復元された清明台櫓
清明台櫓
宇都宮城に外観復元された富士見櫓
富士見櫓

土塁上は歩けるようになっており、清明台櫓富士見櫓という2つの櫓が再建されています。

どちらの櫓も建物内に入って見ることができます。

補足

2階部分は毎月第3日曜日のみ見学可能。

土塁内は宇都宮城ものしり館、まちあるき情報館となっています。

また、公園内には土橋の石垣跡や堀と土塁も復元されています。

城郭検定対策

城郭検定マーク
  • 戊辰戦争の際、宇都宮藩は新政府側についていた。旧幕府軍によって一時占拠されるがすぐに新政府軍によって奪取され、以降は新政府軍の拠点の一つとなる。
  • 吊り天井事件によって本多正純が改易されたという伝承が残る。

関東七名城のくくりで覚えよう!

周辺情報

宇都宮二荒山神社

宇都宮二荒山神社の鳥居
宇都宮二荒山神社

藤原宗円が与えられた神社で、宇都宮大明神と呼ばれていました。

藤原秀郷、源頼義、源義家、源頼朝、徳川家康などの武将らも戦勝祈願したと伝えられています。

関連サイト:二荒山神社|宇都宮二荒山神社

アクセス:栃木県宇都宮市馬場通り1丁目1−1
JR宇都宮駅西口よりバスで5分、徒歩20分
東武宇都宮駅より徒歩15分

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