35.金沢城‐加賀百万石前田と言われた前田氏14代の城‐「石垣の博物館」

金沢城 日本100名城
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写真 総構え・現存建築物など広範囲が城郭検定の常連

日本三大名園「兼六園」をもつ城


加賀一向一揆の一向宗の拠点の一つで、
空堀や柵などを備える城造りの寺院の金沢御堂かなざわみどうが建立されたのが始まりとされています。


その跡地に織田信長の家臣・佐久間盛政が金沢城を築城しました。


後に盛政が賤ヶ岳しずがたけの戦いで羽柴秀吉により討たれると、前田利家が入城します。

その頃に金箔瓦の天守を築いた可能性もあるとみられていますが、
1602年に落雷により焼失した後は三階櫓を代用としました。

また、本格的な石垣も利家の入城後に造られたと考えられています。


その後は利家から14代の藩主が金沢城の城主となりました。
何度も改修や増築が繰り返されたことから、さまざまな種類の石垣を見ることができ、
石垣の博物館などと言われることもあります。

明治以降は軍施設が置かれたため建物の一部を残して撤去され、
第二次世界大戦後には平成7年まで金沢大学のキャンパスとして利用されていました。

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金沢城概要

基本データ

写真 城郭検定頻出の城です。

別名尾山城、尾上城、金城
別名の由来 かつて尾山と呼ばれた地形による
所在地 石川県金沢市
城地種類 平山城
縄張り形式 梯郭式
築城年代 1580年、1583年
築城者 佐久間盛政、前田利家
主要城主 佐久間氏、前田氏
文化財史跡区分 国史跡‐金沢城、重要文化財-石川門、三十間長屋、鶴丸倉庫
天守の築城年代 1592年
天守の形式
天守の構造 五重
現在の天守の状態
現存する建築物 石川門、三十軒長屋、鶴丸倉庫

利用案内

アクセス金沢駅から路線バス「兼六園下」下車→金沢城公園(石川門口)・兼六園(桂坂口)
「広坂」下車→兼六園(真弓坂口)
「出羽町」下車→兼六園(小立野口)
開城時間 3月1日~10月15日 7:00~18:00 (退園時間)
10月16日~2月末日 8:00~17:00 (退園時間)
アーリーオープン有
入城料金
100名城スタンプ設置場所 二の丸案内所、石川門入口案内所
スタンプ設置場所の開館時間 9:00~16:30
主な関連施設 兼六園

関連サイト:金沢城公園ご利用案内

駐車場情報
石引駐車場 金沢市石引4-380
兼六駐車場 金沢市小将町1-53

補足

各開城時間
菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓・橋爪門 9:00~16:30 (最終入館16:00)
河北門・鼠多門  9:00~16:30 (最終入館16:00)
玉泉庵 9:00~16:30 (最終入館16:00)
菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓・橋爪門入館料
大人(18歳以上) 320円 小人(6歳~18歳未満) 100円

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歴史予習

百姓の持ちたる国から加賀百万石の加賀藩まで

浄土真宗・本願寺の第8代目、蓮如れんにょは43歳で本願寺の法主となりました。

しかし比叡山延暦寺によって本願寺の拠点が攻撃され、京都に居られなくなった蓮如は加賀へと逃げます。


そして新天地に辿り着いた蓮如の布教活動によって一向宗は越前から加賀一帯に広がり、
巨大な勢力組織へと成長します。

その頃、当時加賀国の守護大名だった富樫とがし氏の一族内では権力争いがおきていました。

蓮如は富樫政親とがしまさちかの要請を受けて守護家の内紛に介入し、翌年には富樫幸千代とがしこうちよを倒しますが、
一向宗の勢いに不安を感じた政親は門徒の弾圧を開始、門徒は加賀から追われることになります。

手伝ったのに逆に弾圧だなんて!


加賀から追われた一向宗は越中へと逃げますが、
今度は越中の石黒光義が政親と結んで門徒弾圧を始めます。

これにより1481年に越中で一揆が発生します。

これが越中一向一揆です。


さらに国人層と越中から帰還した門徒が決起し、
1488年には政親を高尾城で滅ぼします。

これは長享ちょうきょうの一揆といいます。
以後、加賀に宗主代理の一門衆が在住し、次第に本願寺による支配に移行し、百姓の持ちたる国となります。

しかしその後、一向一揆を抑圧しようとする周辺諸国へ進撃した、
1506年の九頭竜川くずりゅうがわの戦い・般若野はんにゃのの戦いは失敗に終わり、
1531年には大小一揆と呼ばれる内紛に発展するなど徐々に一門衆による統治に陰りが見えてきます。

1546年に尾山御坊おやまごぼう(金沢御堂)が建設されると、
それを拠点として北陸全体に一向一揆を拡大させますが、
朝倉氏や上杉謙信、織田信長と対立し、そしてついに1580年に石山本願寺が降伏、尾山御坊も陥落しました。
尾山御坊を攻略したのは信長の命を受け一向一揆鎮圧に向った柴田勝家の家臣・佐久間盛政でした。

盛政はその跡地に金沢城を築きます。


しかし、その後すぐに本能寺の変で信長が倒れ、
賎ケ岳の戦いに柴田勝家、佐久間盛政が敗北すると、
1583年、豊臣秀吉が加賀を支配するところとなり、金沢城を前田利家に与えました。

その頃はまだ金沢御堂の寺の建物が残る、土塁と木の柵だけの砦だったそうです。


1588年、秀吉のバテレン追放令によって領地を追われていたキリシタン大名の高山右近が、
前田家に身を寄せると、利家は右近に命じて城の修築をしました。


さらに1592年、利家は、長男の利長に金沢城の大修築を命じました。

こうして前田氏によって金沢城が改築され、加賀はその後14代前田氏が統治しました。

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見どころ

石垣

金沢城では場所により石垣様式を使い分けたり、
火災や地震被害に対する修築が繰り返されたことにより様々な石垣を見る事ができます。


石垣に使われている石は、城の南東にある戸室山とむろやま周辺から運ばれた安山岩で、
現地には当時の石切り場や石引き道が今も残っています。


戸室山周辺の安山岩は戸室石とむろいしと呼ばれ、赤い色をした「赤戸室」と
青い色をした「青戸室」があります。

東ノ丸北面石垣は金沢城初期の頃のもので、最も古く野面積みによる石垣です。

金沢城野面積みの石垣
野面積みの石垣

写真が暗くて申し訳ないよ~

大手掘の石垣は慶長期の石垣で、粗割りの石が積まれています。

数寄屋敷の石垣もまた慶長期のもので、刻印なども見る事ができます。
刻印は意味が判明していないものが多く、金沢城内には非常に多く残されています。
数寄屋敷石垣は旧第六旅団司令部前です。

金沢城数寄屋敷石垣
数寄屋敷石垣
金沢城 石川門石垣
石川門石垣

三十間長屋の石垣は切込接ぎですが、表面のふちだけを揃え内側を粗いままに残す金場取り残し積みという技法が使われています。
この三十軒長屋も現存する二重櫓として重要文化財に指定されています。

金沢城三十軒長屋
金沢城三十軒長屋

土橋門には亀甲石きっこうせきが積まれていて、これは水に親しむ亀を表したもので
防火の願いが込められているそうです。

土橋門は二の丸広場近くの金沢城・兼六園管理事務所付近にあり、石垣のみ残っています。

金沢城土橋門亀甲石
土橋門亀甲石

尾坂門では陰陽の大石を使う鏡積みが見られます。これらは陰陽五行思想いんようごぎょうしそうの影響とみられています。
尾坂門は大手門のことで、新丸広場を超えて北にあります。

玉泉院丸庭園には色紙短冊積石垣しきしたんざくづみいしがきと呼ばれる、石垣の上部に滝を組み込んだ石垣があります。

防御施設としてではなく、見る石垣として造られたこの石垣は
全国でも金沢城でしか見る事ができません。

金沢城玉泉院丸庭園
玉泉院丸庭園
金沢城色紙短冊積み
色紙短冊積石垣

いもり堀にある鯉喉櫓台りこうやぐらだいの石垣は布積みでところどころに谷積みが見られ、
角石は直方体でノミ仕上げが施されています。

金沢城いもり堀
いもり堀

雪がすごい時に行くと通れないところがあるから気を付けてね!

金沢城三御門

①石川門(重要文化財)

金沢城石川門の一の門
石川門 一の門
金沢城石川門二の門
石川門 二の門

金沢城の搦手門で、高麗門の一の門、櫓門の二の門、続櫓と2層2階建ての石川櫓で構成された枡形門です。
現存する石川門は宝暦の大火の後の再建で1788年に造られたものです。

石川門の石垣は打込接と切込接ぎが使われている事でも有名です。

河北門かほくもん

金沢城河北門二の門
河北門二の門

金沢城の大手から入り、河北坂を上がったところにあり、実質的な正門です。
宝暦の大火の後、三御門の中で最初、1772年に再建されました。

橋爪門

金沢城 橋爪門一の門
橋爪門 一の門
金沢城橋爪門二の門
橋爪門 二の門

二の丸の正門として、最も格式の高い門で、高麗門形式の一の門、石垣と二重堀で囲まれた枡形、
櫓門の二の門からなります。
二の門内部には番所が置かれ、枡形は城内最大規模を誇ります。

菱櫓

金沢城菱櫓
菱櫓

菱櫓ひしやぐらは大手と搦手を見張る物見櫓だったそうです。

菱櫓と橋爪門続櫓を五十間長屋で繋ぐ構造になっていて、戦の際に二ノ丸を守るための施設でした。

その為大きな石落しや鉄砲狭間となる格子窓があり、
白塗漆喰壁や海鼠壁なまこかべで防火構造になっています。

鉛瓦も特徴的です。
鉛瓦は1.8mmの鉛板を屋根に貼ったもので、このように鉛が使われた理由は、
鉛を隠すため、戦時には鉄砲玉にするためなど、諸説あります。


菱櫓は名前の通り、鈍角100度、鋭角80度の菱形の建物で、柱もすべて菱形です。
二ノ丸で最も高く、千鳥破風の華やかな外観で、金沢城の中でも特徴的な建物です。

金沢城菱櫓内部 柱
菱櫓内部 柱
金沢城 五十間長屋
五十間長屋
金沢城二の丸北側堀
二の丸北側堀

城郭検定対策

城郭検定マーク
  • 現存する石川門と、復元された河北門、橋爪門は金沢城御三門と呼ばれる。
  • 慶長4年(1599)に造られた「内総構」と慶長15年(1610)に造られた「外総構」が二重に巡っている。
  • 日本三大用水と呼ばれる、11kmにわたる辰巳用水が水を供給している。
  • 鶴丸倉庫は現存する江戸期城郭土蔵で、最大の建築面積をもつ。
  • 前田利家が築いた豪華絢爛な天守は落雷により慶長7年(1602)に焼失した。
  • 屋根にはが貼られている。
  • 菱櫓と五十間長屋の堀に面した部分には出しと呼ばれる唐破風の付いた出窓型の石落としが造られている。
  • 三十軒長屋は現存する二重櫓として重要文化財に指定されている。
  • 金沢城で用いられている石材は、耐熱性が高く、見た目も美しい戸室石である。
  • 兼六園には最古の噴水があり、松平定信が命名したと言われている。

1602年に天守を失った落雷による火災、1620年の大火災、1631年にもまた大火災、宝暦の大火でほぼ全焼、1808年に二の丸御殿が全焼、1881年に二の丸御殿がまた全焼、とにかく燃えている・・・。

周辺情報

兼六園

金沢城兼六園 霞ヶ池
兼六園 霞ヶ池

加賀藩第5代藩主・前田綱紀が別荘地のまわりを庭園にした蓮池庭がはじまりと言われ、
松平定信によって兼六園と命名されました。

岡山県の後楽園、茨城県の偕楽園と並んで、日本三名園と呼ばれていて、
国指定特別名勝に指定されています。

現在最古といわれている噴水があります。

関連サイト:兼六園

長町武家屋敷通り

金沢城長町武家屋敷通り
長町武家屋敷通り
金沢城武家屋敷群薦かけ
薦かけ

加賀藩士・中級武士たちの屋敷跡やその近辺の民家では冬場になると薦掛けこもがけなどを見ることができます。

補足

薦掛け・・・土塀を凍結や雪による損傷から守るために藁で作られた薦を設置する。

アクセス:石川県金沢市長町
城下まち金沢周遊バス・北陸鉄道路線バス・西日本JRバス「香林坊」下車 徒歩約5分
まちバス「香林坊大和・アトリオ」「香林坊東急スクエア・日銀前」下車 徒歩約5分
金沢ふらっとバス長町ルート「長町武家屋敷跡」下車すぐ

尾山神社

尾山神社
尾山神社

加賀藩初代藩主・前田利家と正室お松の方を祀る神社です。

神門は国の重要文化財にも指定されています。

関連サイト:尾山神社

前田土佐守家資料館

前田土佐守家資料館
前田土佐守家資料館

前田利家の次男前田利政の前田土佐守家所蔵の資料が約9000点収蔵され、その一部が展示されています。

関連サイト:前田土佐守家資料館

関連記

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