安土桃山時代~明治時代の廃城令まで、城に影響を与えた法律

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一般的に想像されるような、石垣が築かれ、天守がある城郭らしい近世城郭の大半は、
戦国末期から江戸時代初期にいたる半世紀ほどの間に築かれたもので、
その間に3000ほどの城が築かれたと言われています。

より長い期間で見ていくと、日本には実に25,000以上の城があったと言われています。

しかし一国一城令や廃城令によって破却されたり、
戦争や自然災害を経て倒壊・焼失し、現存する天守は12城となりました。

今回は城郭検定の対策としても避けては通れない、城に関連する法律を紹介していきます。

記事の最後には関連する城郭検定の過去問もピックアップしていますので、
ぜひ勉強に役立ててください。

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人為的に城が破却された大きな転換点

関ヶ原の戦い後、徳川秀忠によって一国一城令が発令されました。

立案したのは徳川家康なんだよね。

参勤交代や一国一城令で諸大名の戦力を削って、
徳川の治世を揺るがす者が現れないようにするのじゃ!

これによって全国的に城が破却され、3,000千近くあった城が約170城まで整理されます。

ですが実はそれより前にも破却令を発令した人物がいました。

それが豊臣秀吉です。

この諸城破却令によって南部領の36城が破却となりました。

この破却令が発令されたのは天正18年(1590)、
小田原平定後に行った奥羽仕置きに伴う、南部氏に対する諸城破却令です。

でも一揆が起きたり九戸政実が乱を起こして果たせなかったんじゃ

一国一城の原則で諸大名の力を削ごうとする流れは、
秀吉天下の時代に既に始まっていたのです。

それから200年、増減を繰り返しながらも190ほどの城が明治維新まで存在していました。

そして次の転換点となる廃藩置県・廃城令によって144城が破却され、
残る城郭は40程度まで減少する事になります。

今回ご紹介していくのは、

城の破却に関連する法律

・秀吉諸城破却令
・一国一城令
・廃城令

この3つの転換点です。

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秀吉諸城破却令

これは正確に言うと、全国的に城の破却を命じたものではなく、
秀吉から南部氏への命令のようなものです。

天正18年(1590)、小田原北条氏を滅ぼした秀吉は、
東北地方の大名に対する処分、配置換えを断行します。

これに反発し一揆が続発しますが、制圧後の天正19年(1591)から、翌年にかけて
南部領に諸城破却令が発令されました。

これにより、南部信直へ所領安堵すると当時に、
三戸城を居城とし、他の城を破却するよう命じました。

実際には南部領の48城のうち、12城を在置し36城が破却されています。

また、奥羽仕置き自体も、黒川城(後の会津若松城)にいた伊達政宗が米沢城に移ったり、
蒲生氏が黒川に移封される等、奥羽の勢力図を大きく変えています。

破却された城一覧

鬼柳鹿島館
二子城主の和賀義忠わがよしただが奥州仕置に反発して挙兵するが(和賀わが稗貫ひえぬき一揆)、
翌年の再仕置で蒲生氏郷勢に敗れて逃亡途中に殺害される。
岩崎和賀氏の支城
1600年、和賀忠親わがただちかは再度旧領回復を目指して挙兵し南部氏と戦うが
岩崎城で籠城の末、敗走し自害。
江釣子えづりこ
安俵あひょう
十二丁目仕置に際して、浅野長政一族が駐留。 和賀・稗貫一揆では、和賀勢が立て籠る。
寺林
大迫破却後に、地形上も要害の地で交通上の要衝でもあったので大迫代官所が置かれた。
肥爪ひづめ
見舞見前館
長岡
乙部
厨川くりやがわ
下田
沼宮内九戸政実くのへまさざねの乱では奥州仕置軍が駐留し、南部利直なんぶとしなおと軍議を開いた。
滴石
一方井南部信直が13まで暮らしたらしい。らしい。
姉帯九戸政実の乱では、九戸軍の最前線の城として仕置軍と対戦。
一戸九戸政実の乱では籠城して九戸氏側の夜襲にも耐えた。
葛巻
横田
板沢
千徳
田鎖
野田
久慈久慈氏の居城で、九戸政実の乱では九戸氏に荷担し、九戸城に籠城した。
降伏し開城するに伴い、主だった首謀者達とともに処刑された。
種市
古軽米こがるまい
金田一
櫛引くしびき九戸政実の乱で、櫛引清長と弟・清政は九戸方に加担するが
再仕置軍によって打ち取られ、清長は戦死、
清政は斬首されて櫛引氏は滅亡した。
八戸根城 
諸城破却令で城そのものは破壊されたが館自体は残され、
以降も八戸氏の本拠であり続けた。
中市
新井田後年、八戸藩主南部信興によって館が建てられ使用された。
沢田
洞内
七戸城主七戸家国は九戸政実の乱で九戸城に籠城し、滅亡した。

在置となった城

鳥谷崎とやがさき後の花巻城。盛岡藩の花巻郡代歴代の居城。
1600年、花巻城の夜討ちが行われた。円城寺門と時鐘堂が残る。
新堀
片寄柳田館
不来方盛岡城の前身となった城
増沢
三戸南部氏の居城。九戸一揆平定後、奥州仕置軍を率いた蒲生氏らにより、
石垣を持った城へと普請される。
その際に本丸に三層三階の御三階櫓が上げられたと考えられている。
名久井
劔吉けんよし
毛馬内柏崎館
花輪
浄法寺
野辺地明治元年(1866年)の戊辰戦争の一局地戦として、
弘前藩と盛岡藩が交戦した野辺地戦争では、盛岡藩兵側の拠点となった。

八戸城(根城)、不来方城を前身とする盛岡城が日本100名城に選定されています。

他には関ヶ原の戦いに南部氏が出陣している間に起きた、
花巻城の夜討ちの舞台となった鳥谷崎城は、遺構も残っています。

盛岡城に移るまで南部氏の居城となった三戸城にも
模擬天守が建てられています。

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一国一城令

1615年、江戸幕府の大御所・徳川家康が立案し、秀忠によって一国一城令が発令されました。

これは、一国に大名が居住、または政庁とする城を一つと限定し、
それ以外の城は全て廃城にするというものです。

一つの国を複数の大名で分割して領有している場合は各大名ごとに一城、
一つの大名家が複数の国を領有している場合は各国ごとに一城と定めました。

ただし、領地が広い、将軍家と懇意だったり、信用がおける、
地域の治安維持に必要などの理由があれば、複数の城を持つ事が許される事もありました。

例えば・・・

前田氏の金沢藩は、加賀国に金沢城がありますが、
将軍家と親しかった前田利常としつねは、特別に幕府より許され、加賀に小松城を築きました。

鳥取池田家の鳥取藩は、因幡国、伯耆国ほうきのくにの二国に鳥取城、米子城、倉吉城の3城を保有しました。
鳥取池田家は将軍家の親戚です。

御三家のひとつである紀伊徳川家の紀州藩は、
紀伊、伊勢の二国で、和歌山城、松坂城田丸城、田辺城、新宮城の5城を保有しました。
徳川御三家である事に加えて、西国諸大名への備えの点からも5城の保有を許されたと思われます。

伊達氏の仙台藩は、仙台城の他に、家臣片倉氏の白石城
「要害」などと称して実質上の城を多数維持し続けました。

佐竹氏の久保田藩は、出羽国の一国に対して久保田城、大館城、横手城の三城を保有しました。
出羽国(および陸奥国)は広大で、佐竹領も出羽国の半国とはいえかなりの面積がありますし、
大大名である佐竹氏を減転封する見返りに、
政情が不安定だった地区の城の保持を許したとも言われています。

他にも例外はありますが、この一国一城令によって、
安土桃山時代に3,000近くもあったといわれる城郭が約170程度まで減少しました。

武家諸法度

元和元年(1615)、秀忠により、武家諸法度が発令されます。
諸大名が伏見城に召集された元和令は知っている人も多いと思います。

これは、婚姻の許可制や統治の制限などを規定したの13ヶ条からなるもので、
そのうちの一つに、

諸国ノ居城、修補ヲナスト雖、必ス言上スヘシ。況ンヤ新儀ノ構営堅ク停 止セシムル事。

とあります。

つまり、諸大名は居城の修理は制限され、新たな築城は一部の例外を除いて禁止されたという事です。

この武家諸法度は将軍の交代と共に改訂が続けられ、

寛永12年(1535)の寛永令では、

新規ノ城郭構営ハ堅クコレヲ禁止ス。居城ノ隍塁・石壁以下敗壊ノ時ハ、奉行所二達シ、其ノ旨ヲ受クベキナリ。櫓・塀・門等ノ分ハ、先規ノゴトク修補スベキ事。

と改訂されます。

これにより、櫓、門、塀は元通りの修復なら届け出が不要となりました。
※堀など普請に含まれる修復は届け出が必要

寛永令より以前、元和4年(1618)年には、無断修築によって福島正則が改易される事件がおきています。

台風による洪水などで破損した広島城の一部を修復したところ、
武家諸法度違反として咎められたものでした。

正則は幕府に、本丸、二の丸、三の丸の破却を命じられ実行しましたが、
この取り壊しが不十分ということで、
将軍・秀忠の怒りを買い、元和5年(1619)、福島家は改易されてしまいました。

補足

この事件には、福島正則が広島城の無断修築より以前に無断で新城の築城をしようとした事から、
修理の届け出をした後もなかなか許可が降りなかったという説や、
修理の申請を受け取った本多正純によって握りつぶされ、将軍まで報告されていなかったなど、諸説あります。

また、武家諸法度によって新しい城の築城を禁止しましたが、
もちろんこれにも例外がありました。

例えば・・・

白河藩10万石余を与えられ初代白河藩主の丹羽長重は
小峰白河城を大改修し、近世城郭として整え、城下町の整備をしました。

長重は、信長の重臣であったという名家出身で、かなりの厚遇を受けていましたし、
白河は東北への交通の要衝の地だった為、幕府より築城を命じられました。

ただし、武家諸法度の発布後ということで、天守は築かれず、
三重櫓を築いて、天守代用としました。

また西国の外様大名の監視として、明石城や福山城も造られています。
一方で外様大名である浅野長政が赤穂城を築城した例もあります。

廃城令

明治4年(1871)に廃藩置県が施行されると、
藩庁として使われていた城が役目を終えて廃城となりました。

その後も実際には多くの城が利用されていましたが、
明治6年(1873)に所謂廃城令が発令されると、
陸軍省所館の行政財産とするか、廃城にして大蔵省所管の普通財産として売却処分するかの2択を迫られました。

そしてこれにより144城が廃城となりました。

補足

廃城令という名称の法令は正式には存在せず、
1873年に大蔵省達、陸軍省達でこの内容にあたるものが公布されています。

存城処分となった城の例

弘前城本丸御殿などは取り壊されたが、旧藩主の津軽家がお城の貸与を許可され
一般開放される。
丸岡城一時は競売にかけられ落札されたが、町民によって買い戻され丸岡町に寄付される。
犬山城廃城令で天守以外取り壊される。
明治24年の濃尾地震で被害を受けたが修復を条件に旧藩主・成瀬家に再び譲渡される。
二条城陸軍から宮内庁へ引き渡され、二条離宮として残された。
丸亀城櫓や塀は取り壊されたが、旧藩士の嘆願により天守と大手門は存城となる。
彦根城明治天皇が彦根に立ち寄った際、大隈重信が明治天皇に対して
彦根城の保存を提案し採用された。

また、存知処分にまつわるとても有名な話があります。

陸軍の中村重遠しげとお大佐が、名古屋城と姫路城の保存を陸軍卿山県有朋に訴え、
中村大佐の訴えを聞き入れた山県有朋はお城の保存を決定したというものです。
1879年には陸軍の費用で修理もされています。

姫路城には中村大佐顕彰碑が建てられています。

中村重遠大佐碑 姫路城
中村大佐顕彰碑

まとめ

いかがでしたか?

今回は城郭が時代を経て徐々に減ってきた過程のうち、
人為的に破却された代表的な転換点をまとめてみました。

近年では城郭が観光地化され、復元される流れがある一方で、
過去には人為的に数を減らしていたんですね。

一国一城令の例外として存続した城や、武家諸法度発令後に築城された城は、
城郭検定でも過去に出題されていますから、
いつ頃、誰によって発令され、どのような影響を及ぼしたかを
しっかり確認しておきましょう。

城郭検定 過去問

Q1.城の修復には許可が必要とされた武家諸法度だが、寛永12年に改訂され、元通りの修復なら届け出なくてもよくなったのはどの部分か。
①塁
②石垣
③堀
④櫓

Q2.鳥取の池田氏で一国一城令後も残された支城はどれか。
①米子城
②松江城
③浜田城
④出石城

Q3.武家諸法度で新たな築城を禁じたが、石高10万石にふさわしいとの理由で丹羽長重が築城を認められたのはどこか。
①会津若松
②白河小峰
③二本松
④宇都宮

Q4.元和の一国一城令で廃城となり、その後前田利常の隠居城として再建されたのはどの城か。
①小松城
②富山城
③福井城
④七尾城

Q5.明治天皇の巡幸に随行した大隈重信が、破却令の出ていた城の破却中止を奏上し、破却を免れたとされる城はどれか。
①広島城
②姫路城
③彦根城
④犬山城

Q6.明治の廃城令で破却が通達された城はいくつか。
①100
②144
③200
④288

解答

A1.④櫓 A2.米子城 A3.②白河小峰 A4.①小松城 A5.③彦根城 A6.②144


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