26.松代城-武田信玄の城の歴史予習、川中島の戦いまとめ

松代城 太鼓門 日本100名城
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写真 武田方の天才軍師として有名な参謀・山本勘助によって築かれた城です。

川中島の戦いの最中に築かれた武田方の城

海津城の築城年代は正確には不明ですが、
戦国期には甲斐国の武田信玄と越後国の長尾景虎(上杉謙信)が信濃の覇権を争った
川中島の戦いの際に、武田方の拠点として築城されたと言われています。

海津城は武田信玄が山本勘助に命じて築いた城で、
甲州流築城術の特徴を強く持ち、武田氏築城の代表的な城のひとつです。

武田氏滅亡後には織田家臣の森長可の居城となりました。

江戸時代に真田信之が入城すると、松代城と改名され、
真田10万石の城下町が発展しました。

現在は海津城址公園として整備されており、
平成16年には太鼓門、堀、石垣、土塁などが復元されています。

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松代城概要

基本データ

写真 甲州流築城術の特徴を強く持った城です。

別名海津城、貝津城、茅津城
別名の由来 茅の生い茂った地であったことによる
所在地 長野県長野市
城地種類 平城
縄張り形式 輪郭式
築城年代 1560年
築城者 武田信玄、田丸直昌、森忠政
主要城主 武田氏、田丸氏、森氏、真田氏
文化財史跡区分 国指定史跡
天守の築城年代
天守の形式
天守の構造
現在の天守の状態
現存する建築物 藩校文武学校、真田邸、鐘楼、稲荷神社

利用案内

アクセスJR長野駅からアルピコ交通「松代」駅から徒歩約5分
開城時間 9:00~17:00
入城料金
100名城スタンプ設置場所 真田邸
スタンプ設置場所の開館時間 9:00~17:00 (11月~3月は16:30まで)
主な関連施設 真田宝物館、真田邸(附新御殿跡)、文武学校

関連サイト:信州松代観光協会

歴代藩主

海津城時代(1560~1600頃)

春日弾正虎綱かすがだんじょうとらつな
春日信達
安部勝宝
森長可
村上景国
上条宜順
須田満親
(太閤蔵入地)
田丸直昌

待城時代(1600~1603)

森忠政

松城時代(1603~1658)

松平忠輝
花井吉成
花井義雄
松平忠昌
酒井忠勝
真田信之
真田信政

松代城(1658~)

真田幸道
真田信弘
真田信安
真田幸弘
真田幸専
真田幸貫
真田幸教
真田幸民

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歴史予習

川中島の戦いの背景

川中島は犀川さいがわ千曲川ちくまがわが合流する地点で、越後と信濃を結ぶ交通の要衝でしたし、
肥沃で豊かな土地でした。

武田信玄は、父・信虎を追放し家督を手に入れましたが、
家臣の力が強かった武田家をまとめるには領土を拡大してそれを家臣に分配する必要がありました。

ですが関東や東海地方には北条や今川といった強力な大名がすでにいたため、
信濃に目を付け、領土の拡大を目指しました。

信濃周辺の領主達は、武田に臣従するか、戦うかの選択を余儀なくされましたが、
武田に領地を奪われた領主達は越後の長尾景虎、後の上杉謙信に救援を求めました。

謙信にとっても自身の本城である春日山城からも近いこの地が信玄に支配されれば、
いつ越後まで攻め込まれるかわかりませんから、
信玄の侵攻を許すわけにはいきませんでした。

謙信はこうした地元の領主らの要請を受け入れ、
義の為、信濃に度々出兵する事となりました。

こうして計5回、12年にも及ぶ川中島の戦いがはじまりました。

補足

この戦いに関する信憑性の高い資料はほとんど存在せず、様々な説が存在しています。
勝敗がはっきりとついていないため、どちらも積極的に記録を残さなかったのではないか、
とも考えられていますが、今回は近年有力となっている説をベースに、
これまでの通説を交えながら解説していきます。

第一次~第三次

天文22年(1553)、第一次川中島の戦いが開戦します。

篠ノ井駅前 布施の戦いの地石碑
篠ノ井駅前

布施の戦いあるいは更科八幡さらしなやわたの戦いなどとも呼ばれます。

武田信玄によって葛尾城かつらおじょうを奪われていた北信濃の村上義清は、上杉謙信に救援を求めました。
これを受け入れた謙信は、北信濃に兵を送ります。

武田に攻略されていた城を順調に奪い返していくと、それを元の地元武将に返還し、
上杉軍は越後へと引いていきました。

こうして第一次川中島の戦いは小競り合い程度に留まります。

互いに小手調べをした形となりました。

その頃・・・

この直後、謙信は上洛し、後奈良天皇より官軍とされます。
一方敵対する者は賊軍となり、信玄を討つ大義名分を手に入れました。
一方信玄は、駿河の今川、相模の北条と三国同盟を結びました。

天文24年(1555)、第二次川中島の戦いが開戦します。

犀川の戦いと呼ばれるこの戦いで、信玄は外交戦略を用います。

そして信濃衆にも強い影響力を持つ善光寺を取り込んだ武田方に、
地元武将の中でも味方する者が現れはじめます。

謙信はこの善光寺を取り戻そうと出陣する事になります。

犀川を挟んで両軍は睨みあいとなりますが、決着はつかず、
実に200日もの間、膠着状態となりました。

この戦いは駿河の今川義元の仲介によって和睦し、
休戦協定が結ばれました。
この協定に際して、北信濃の領土は元の武将に返還されています。

天文26年(1557)、第三次川中島の戦いが開戦します。

この戦いは上野原の戦いと呼ばれています。

信玄は今度は、雪で覆われ上杉方が身動きできない時期を見計らって、
北信濃を占拠しました。

謙信は和睦を無視した信玄の侵攻に怒り、雪解けを待って4月に出陣します。

謙信は武田に奪われた北信濃の城を次々と攻め落としますが、
武田軍は巧みに全面衝突を避けながら後退し、
またもや決着はつかないまま、小競り合い程度に両軍は撤退する事になります。

その頃・・・

この頃謙信は、将軍・足利義輝の求めによって上洛し、
上杉家の家督と関東管領職を得ました。
さらに桶狭間の戦いによって今川氏が討たれると、
関東を積極的に制圧していきました。
一方信玄は、謙信が関東に出兵している間に海津城(後の松代城)を築城し、再び北信濃に侵攻します。

第四次・第五次

関東管領となり関東に出陣していた謙信ですが、
北条氏の小田原城は1ヵ月以上包囲しても落とせない難攻不落の城でした。

そこへ信玄が北信濃に侵攻しているという知らせが入り、
謙信はやむなく撤退する事となります。

永禄4年(1561)、第四次川中島の戦いが開戦します。

この戦いは、八幡原の戦いと呼ばれる戦いです。

戦国史上でも有名な川中島の戦いですが、
この八幡原の戦いの事を指している事が多く、
川中島の戦いの決戦として、今でも多くの歴史小説やドラマの題材となっています。

謙信は、謙信不在の間に信玄が北信濃に新しく築いた海津城の向かいにある、
妻女山さいじょさんに布陣しました。

妻女山やその一帯には信玄の砦がいくつも築かれていて、
まさに敵陣のど真ん中といった場所でした。

妻女山の上杉軍は1万3千ほどで、一方武田軍は2万ほどでした。


信玄は越後からの補給ルートに圧をかける事ができる茶臼山に布陣しますが、
一向に謙信が仕掛けてくる様子はありませんでした。

しびれを切らせた信玄は一度海津城へと撤退します。

そこで武田方の参謀・山本勘助によって啄木鳥きつつき戦法が提案されます。

これは兵を二手に分けて、本隊8,000は八幡原に布陣し、
別働隊12,000が妻女山に奇襲をかけ、八幡原に追い込み、挟み討つという作戦でした。

砦化されている妻女山に戦力で負けている別働隊を送るリスクの観点から、この戦法も疑問視されていたりもするんだよ。

ところがこれまでの通説によると、海津城からの炊煙が増えた事に気づいた謙信は、
信玄が出陣する兵に持たせる食料を用意していると考え、
夜の間に密かに山を降り、武田軍の目の前に布陣しました。

散り散りとなって山から逃げ降りてくると考えた武田はこの際に、
鶴翼かくよくの陣と呼ばれる、横に広く広がった陣形で待ち構えたといいます。

しかし、翌朝霧が晴れてくると、目の前には車懸けの陣で謙信の軍が現れ、
それに意表をつかれた武田軍は動揺し、劣勢となりました。

補足

車懸けの陣・・・本陣を中心に、その周囲を円となって周回しながら移動するというもので、
接敵する部隊が入れ替わる事で、常時新手によって攻撃を加えられるというもの。
しかし実際には甲陽軍鑑のみに登場するもので、どのようなものかははっきりとはわかっていません。

一方で近年注目されている不期遭遇戦説によると、

幾日にもわたって妻女山に籠っていた謙信の軍は、
兵糧も尽き、兵が消耗していました。

そこで、八幡原からもほど近い上杉領の横山城へ一旦退却し、
体制を立て直すつもりで夜中にこっそりと下山しました。

その頃武田軍もまた、謙信が妻女山に籠っている隙をついて、
横山城を攻め落そうと考え、両軍ともに同じ地へ向かう事となりました。

そして朝になり霧が晴れてくると、互いの軍旗が目に入り、両軍共に驚き、
そこで決戦となりました。

いずれの説にしても、八幡原の地で武田軍と上杉軍が衝突する事となりました。

別働隊として部隊を二手に分けていた武田軍は劣勢となりましたが、
その別働隊が合流すると一気に形勢は逆転し、
上杉軍は退却を余儀なくされました。

これにより上杉軍は3,000の死者、武田軍は4,000の死者と
さらに信玄の弟・信繁や山本勘助といった将を失いました。

両者大きな痛手となった戦いですが、これもまた痛み分けとなります。

犠牲者の数や、将の討ち死にを考えると、上杉軍の勝利とも考えられますが、
先に退却したのは上杉軍で、北信濃は武田軍の支配下に入っていますので、
何をもって勝敗を判断するかが難しく、合戦後には両軍共に勝利を主張しています。

永禄7年(1564)、第五次川中島の戦いがおこります。

これは塩崎の対陣と呼ばれています。

その後も謙信が関東に攻め入るたびに、
武田軍は北信濃を侵攻しました。

この戦いでは、上杉・武田両軍とも飛騨国の国衆同士の争いに介入し、支援しましたが、
直接の決戦は避け、2ヵ月におよぶ睨みあいの末、両軍撤退しました。

第四次川中島の戦い以降、両軍が全面的に衝突する事はなく、
信玄は今川義元を失った東海道を、
謙信は関東制圧を目指し、北信濃での勢力争いには終止符が打たれた形となりました。

大将同士の一騎打ちはあったのか。

川中島の戦いを描いた多くの絵画や銅像、歴史小説などでは、
謙信が刀を振り下ろし、それを信玄が軍配で受け止める姿が描かれています。

また甲陽軍鑑においても、白手拭で頭を包んだ騎馬武者が本陣に切込をかけ、
信玄に三太刀にわたり斬りつけ、信玄は鉄製の軍配でこれを受けたが、
後にこれが上杉謙信であると知った、といった内容が記述されています。

一方で江戸時代に作成された上杉家御年譜によると、斬りかかったのは荒川伊豆守だと記述されています。

甲陽軍鑑は、武田信玄を中心とする武田家や家臣団の逸話、軍学などで構成されていますが、
後に武田家家臣の手によって手が加えられています。
近代では、歴史研究の資料としての価値も疑問視され、記録資料との相違点なども多い事から、
記録物語とされています。

しかし、謙信と盟友関係にあった、関白・近衛前久が合戦後に謙信に送った書状によると、
謙信自らも太刀を振った事を称賛する内容が記されており、
謙信が信玄と対峙した可能性は低いながらも、完全には否定しきれません。

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見どころ

甲州流築城術の特徴を強く持った城

松代城 水堀
水堀
松代城 戌亥櫓台
戌亥櫓台

甲州流築城術の特徴を強く持った松代城は、
北側に千曲川があり、本曲輪を三方から二の曲輪が囲み、丸馬出や三日月堀を有していました。

埋門は当時は3か所にあったとされていますが、
現在は1か所復元されています。

松代城 埋門
埋門

土塁は、戦国時代には千曲川がすぐ松代城のそばまで迫っていた事を伝えています。

松代城の石垣は地元で採掘された柴石や、皆神山の石を使い、野面積みで築かれていて、
戌亥櫓台は上に登る事ができるようになっています。

太鼓門・北不明門

松代城 太鼓門
太鼓門
松代城 太鼓門

太鼓門は本丸正面に位置し、松代城で最も大きい門とされています。
藩士に登城時刻を知らせたり、緊急連絡をするための太鼓が備えられていた為、
太鼓門と呼ばれるそうです。

松代城 北不明門
北不明門
松代城 北不明門

北不明門きたあかずもんは、太鼓門の反対に位置しています。

本丸搦手で、当初は千曲川に接していた為水の手御門とも呼ばれていたそうです。

城郭検定対策

城郭検定マーク
  • 松代城には埋門が復元されているが、の丸土塁には、三ヶ所の埋門があった。
  • 海津城から松代城に改名した際の城主は真田幸道
  • 江戸時代は真田藩の城だった。
  • 北信濃の支配の為に武田信玄が造った城で、海津城の縄張りは山本勘助によるもの。

山本勘助・真田・武田・上杉謙信・森長可、ビックネームがたくさん関連しているね!

補足

1600年 関ヶ原後、森長可の弟・忠政が待城と改名。
1603年 徳川家康六男・忠輝が松城と改名。
1711年 信濃松代藩三代藩主・真田幸道が松代城と改名。

周辺情報

真田宝物館/真田邸/文武学校/象山記念館/旧横田家住宅

真田宝物館

真田氏より寄贈された武具や調度品などを展示しています。

真田邸

松代城 真田邸
真田邸

9代藩主・幸教が義母・貞松院の住まいとして築城した御殿です。

☆スタンプ設置場所

文武学校

松代城 文武学校
文武学校

8代藩主・幸貫が計画し、幸教の頃に完成した松代藩の藩校です。
学問所、柔術所、弓術所、剣術所、槍術所などが配置されています。

象山記念館

佐久間象山の実績や遺品を紹介しています。
象山に教えを受けた人といえば勝海舟や坂本龍馬など、
明治維新でも活躍した人物もいます。

旧横田家住宅

松代の中級武家の住宅で、横田家は和田英や、
最高裁判所長官、鉄道大臣などの人材を輩出しています。

補足

5館共通入場券有

象山神社

象山神社
象山神社
佐久間象山銅像
佐久間象山銅像

象山記念館近くにある象山神社には、京都から移築した茶室や象山宅跡、誕生の碑などがあります。

大英寺

松代城 大英寺
大英寺
大英寺

真田信之の正室・小松姫の菩提寺です。
※小松姫に関する位牌や宝物の拝観は要事前連絡

旧松代藩鐘楼

旧松代藩鐘楼
旧松代藩鐘楼

初代藩主・真田信之の頃、寛永元年(1624)に、
火の見櫓と共に設置されました。

現在の鐘楼は大火で焼失後に享和元年(1801)に再建されました。

象山地下壕

象山地下壕
象山地下壕

第二次世界大戦末期に掘削された地下壕で、総延長5,853mあり、
そのうち500mほどが公開されています。

鉱業で発生した捨石を堆積させてできた山はずり山と呼ばれますが、
象山地下壕のずり山は後に東京都内の道路の下地として埋め立てられたり、
空港の下地となったようで、現在は残っていません。

しかし戦時中は周辺の高校生らが地下壕の存在を隠すためずり山に木や草を植えるなどしたそうです。

内部にはそうした捨石を運んだトロッコの枕木跡も残されています。

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