137.福井城‐柴田勝家の北ノ庄城と結城秀康の福井城

福井城 石垣 その他の城
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写真 続日本100名城に選定されている福井城とその前身とも言える北ノ庄城

天下普請で築かれた家康の子・結城秀康の城

福井城の前身となる北ノ庄城ですが、南北朝時代にはさらにその前身となる城が
この付近に既に城が築かれていたとされています。

その後朝倉頼景がこの地に館を築き、北庄朝倉家の拠点となっていましたが、
朝倉氏の滅亡後は織田家臣の柴田勝家にこの地が与えられ、
勝家自らの縄張りによって北ノ庄城が築城されます。

しかし賤ヶ岳の戦いに敗れた勝家は、北ノ庄でお市の方と共に自害すると、
丹羽氏、堀氏、青木氏が城主となり、
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦い後に徳川家康の二男である結城秀康の領地となると、
天下普請によって大改修されます。

この福井城は完成までに6年もかかったと言われていて、
本丸は五重の水堀で囲まれた御家門の居城にふさわしいものだったようです。

さらに福井藩三代藩主の松平忠昌まつだいらただまさによって、
北の字が「敗北」にあたり不吉であるとして、「北ノ庄」から「福居」に改名され、
さらに後に「福井」と改名されました。

補足

天守台のそばにある福の井という井戸が由来となったそうです。

現在は北ノ庄城の跡地と考えられている柴田神社の地下から石垣が出土している他、
福井城の内堀、石垣、天守台などの遺構が残り、
本丸跡には福井県庁、県会議事堂、県警察本部が建てられています。

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福井城概要

基本データ

写真 結城秀康は1604年に松平氏を名乗ることを許されます。

別名北ノ庄城、北庄城、庄城、福居城
別名の由来 北ノ庄を増改築したことによる
所在地 福井県福井市
城地種類 平城
縄張り形式 輪郭式
築城年代 1600年
築城者 結城秀康
主要城主 越前松平家
文化財史跡区分
天守の築城年代 1601年
天守の形式 望楼型
天守の構造 四重五階
現在の天守の状態
現存する建築物

利用案内

アクセスJR福井駅から徒歩約5分
開城時間
入城料金
100名城スタンプ設置場所 福井県庁受付
スタンプ設置場所の開館時間 8:30~17:15
主な関連施設 福井市立郷土歴史博物館

関連サイト:福井市立郷土歴史博物館

補足

土日祝日など福井県庁が休みの場合は県庁の守衛室でスタンプを押せるそうです。

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北ノ庄城の概要・歴史

写真 本丸所在地もはっきりとはわかっていない城でありながら城郭検定出題歴もある城

別名
別名の由来
所在地 福井県福井市
城地種類 平城
縄張り形式
築城年代 1575年
築城者 柴田勝家
主要城主 柴田勝家
文化財史跡区分
天守の築城年代 1575年頃
天守の形式
天守の構造 七層(一説には九層)
主な関連施設 北の庄城址資料館
アクセス JR福井駅徒歩約5分(福井城からは約10~15分)
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歴史予習

賤ケ岳の戦い

(1)清須会議

天正10年(1582)、本能寺の変で織田信長が没すると、
織田家の当主決めや領地配分に関する会議が清州城で行われました。

この会議で、信長の三男・信孝のぶたかを推挙する柴田勝家と、
嫡孫・三法師さんぼうしを推挙する豊臣秀吉が激しく対立しました。

これは結果的には三法師がまだ3歳であった為、
三法師を次期後継者と定めつつ、三法師が成長するまで、
信孝を後見とする事に決まりました。

また領土配分でも、明智光秀討伐の功績が大きかった秀吉が、
畿内より西の大半を配分され、
さらに信長の妹・お市の方と勝家の婚姻を認める条件として、
三法師が元服するまでの間、山城国もが秀吉の領地となりました。

山城国は政治の中心!お市の方が勝家の手に渡るのは惜しいが、なんとしても手に入れておきたかったんじゃ。

さらに商業の中心ともいえる堺も秀吉のものだから、すごい力を手に入れたんだね!

清須会議の後、勝家と秀吉の対立はますます深まっていきました。

豊臣秀吉

・新たな城を築かないという取り決めが清須会議で定められていたが、それに反して山崎城を築城

・周辺大名や織田家臣を取り込む

・秀吉の養子となっていた信長の四男・秀勝を喪主に、秀吉に与する者のみで信長の葬儀を盛大に催す。

・三法師が安土に入らない事を理由に信長の次男・信雄のぶかつを織田家当主に据える。

柴田勝家

・三法師は安土城に移ることになっていたが、勝家と結託した信孝は三法師を手放さず、岐阜城に籠る。

・秀吉が織田家臣と私的に同盟を結んだと非難

滝川一益たきがわかずますを味方につける

・お市の方と結婚

(2)挙兵

秀吉の勝手な振る舞いに怒りを爆発させた勝家は挙兵を決意しますが、
雪により進軍できず、時間稼ぎとして秀吉の元に使者を遣わせ、
和睦を持ちかけました。

しかしこれを見抜いていた秀吉は、清須会議から半年ほどたった12月、
勝家が雪により足止めされているのを見計らって挙兵し、
勝家の子・勝豊のいた長浜城を手中に収めると、
そのまま美濃へ進軍し、信孝の籠る岐阜城から三法師を奪還します。

次に翌天正11年(1583)1月、柴田勝家に与する滝川一益が伊勢で挙兵します。
そして長島城に籠城しました。
秀吉は長島城を攻撃しますが、なかなか攻め落とす事ができずにいました。

そんな中、さらに柴田勝家も雪の中挙兵し、
佐久間盛政ら率いる3万の軍勢で北近江に布陣しました。

一方秀吉は兵のうち1万を長島城からの攻撃に備えて伊勢に残し、
5万の軍勢で近江に布陣しました。

こうして賤ケ岳の戦いへと発展していきます。

さらにこの時、秀吉によって攻められ岐阜城で降伏した織田信孝が美濃で挙兵しました。

こうして秀吉は北近江の勝家、伊勢の滝川に挟まれ、さらに美濃からの攻撃にも
備えなければならなくなりました。

(3)美濃大返し

美濃の信孝挙兵を知った秀吉は、近江に守備隊を残しつつ、自身は一旦美濃の制圧へと向かいました。

これを好機と見た勝家は睨みあいを続けていた近江で攻撃を開始します。
一進一退の攻防が続きましたが、ここで調子付いた佐久間盛政が退却命令を無視し、
敵陣に留まっていました。

ちょうどその頃、美濃へ向かう途中の大垣城にいた秀吉は、
賤ケ岳の戦いの戦況を耳にすると、賤ケ岳へと戻る事を決めました。

大垣城から賤ケ岳まで52kmをわずか5時間で移動したこの出来事は、
美濃大返しと呼ばれています。

フルマラソンの世界記録が2時間ちょっとだから、さらに道が整備されていなくて、重い武具をまとっている事を考えたら、びっくりな速さだね!

こうして賤ケ岳は柴田軍と豊臣軍の全面衝突となっていきました。

(4)柴田の敗走

豊臣軍と佐久間盛政や柴田勝政ら柴田軍が激しい攻防を繰り広げる中、
前田利家が突如戦線を離脱します。

これにより、利家に続いて金森長近かなもりながちか不破直光ふわなおみつら柴田軍が撤退し、
ついに柴田軍は総崩れとなっていきました。

この離脱した前田氏、金森氏、不破氏は実は調略されていたんだよね・・・

勝家が挙兵するまでの時間稼ぎに遣わせた使者がこの3人だったんじゃ!

秀吉軍は残った部隊を追撃し、
勝家は北ノ庄城へと逃げおちました。

さらにその2日後、前田利家が秀吉軍の先鋒として北ノ庄を包囲、
勝家は抵抗しましたが、最後には天守に自ら火を放ち、お市の方と共に自害しました。

(4)戦いの後

お市の方には、浅井三姉妹と呼ばれる3人の娘(茶々、初、江)がいましたが、
秀吉に託され、茶々はのちに秀吉の側室・淀殿となり、豊臣秀頼を生みます。

北ノ庄跡の柴田神社にはお市の方と浅井三姉妹銅像が置かれています。

福井城柴田神社のお市の方の銅像
柴田神社のお市の方の銅像
福井城柴田神社の浅井三姉妹の銅像
柴田神社の浅井三姉妹の銅像

賤ヶ岳の戦いで功績を挙げた武将、福島正則、加藤清正、加藤嘉明かとうよしあきら脇坂安治わきざかやすはる平野長泰ひらのながやす
片桐且元かたぎりかつもと槽谷武則かすやたけのり賤ヶ岳の七本槍と呼ばれ、それぞれ秀吉から感状と領地を与えられました。

将軍になれなかった家康の息子、結城秀康の人生

結城秀康像(運正寺蔵)
結城秀康像(運正寺蔵)
福井城結城秀康公の像
福井城本丸 結城秀康公像

幼少期

結城秀康は、天正2年(1574)に徳川家康の次男として生まれました。幼名は於義丸おぎまるです。

しかし、母親は家康の側室で、正室の築山殿つきやまどのの世話係であった於万の方おまんのかたであり、低い身分でした。
さらに当時は忌み嫌われていた双子での誕生でした。

このように複雑な出自を持つ秀康は、天下人家康の子でありながら、
3歳になるまで父親である家康と対面することすら叶わず、
重臣の本多重次に預けられたとされています。

兄であり嫡男の松平信康は、これを知ると秀康を不憫に思い、
父に対面させようと試みたというエピソードがあります。

家康が岡崎城を訪れた際、秀康を座敷の障子の陰に待機させたのです。

しかし、障子から「父上」と声がすると、
家康は秀康の声だと察し、とっさに席を離れようとしました。

ところが兄・信康は、「弟に見参を許してほしい」と必死で懇願しました。
そのあまりの形相に、家康は仕方なく秀康と初対面し、我が子を膝の上で抱いたと伝えられています。

家康まで避けるなんて・・・

この心優しい兄・信康は後に切腹し自害しています。

優秀な武将であった為、信長が危険視して命じたという説や、
家康と対立し、家康によって死を命じられたなど諸説ありますが、
いずれにせよ、この信康の死によって秀康は徳川家年長の男子となりました。

羽柴家時代

天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いがおこると、
父・家康と当時の羽柴秀吉の和解の条件として、秀康は秀吉のもとへ養子に入りました。

しかし先ほどの通り、この時既に、嫡男・信康は亡くなっており、秀康が長男の立場にありました。

そのため家康は当初、家康の父違いの弟、松平定勝まつだいらさだかつを送る予定でしたが、
生母である於大の方おだいのかたの反対に遭い、秀康が送られることとなりました。

そして徳川の後継者には西郷局さいごうのつぼねとの子である秀忠を据えました。

家康のお母さんの力が強いのは想像できるけど、それにしても長男を養子に出すなんて・・・。


こうして秀康は人質として大阪の豊臣家に入り、この時から秀康と名乗ります。

秀吉からは我が子のように可愛がられたそうで、
秀吉と秀康との強い絆を伝える逸話がいくつも残されています。

例えば秀康が16歳のとき、伏見城で馬に乗っていると、
突然秀吉の寵臣が競争を仕掛けてきました。

すると秀康は、「自分に対して許しもなく競りかけてくるとは無礼千万である」
と切り捨ててしまうのです。
これを知った秀吉は、
「我が子に対する無礼はわしに無礼を働くのに等しく、万死に値する。結城秀康の心映えは天晴れである」
と不問に付しました。

また、江戸幕府が開かれたあと、徳川家重臣の本多正信が、秀吉の遺児・豊臣秀頼を討つよう
家康に進言しているという噂が立ち、それを耳にした秀康は激怒しました。

そして直接本多正信に詰め寄り、秀吉にとって自分は実子同然であったこと、
そのため秀頼にとって自分は兄であるから、もし秀頼を討てば、
誰であろうとただでは置かないと、言い放ったというのです。

秀康の「秀」は秀吉から、「康」は家康から一字もらったものであるとも言われているよ!すごい名前だよね!

結城家時代

しかしその後、秀吉に実子である秀頼が生まれたことにより、
再び下総国の結城晴朝ゆうきはるともの養子に出され、結城秀康と名乗ります。

この時秀康は17歳で、後に結城家を継ぎ、11万石ほどの地方大名になりました。

徳川家での立場も弱かったし、最終的には秀吉からも遠ざけられて、不遇の人生だったんだね。

このように幼少の頃から、複雑な人生を送っていた秀康でしたが、
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いがおこると、
実の父・家康の命を受け、下野国小山に布陣します。

家康と共に会津の上杉討伐に向かった秀康でしたが、
石田三成の挙兵を知って引き返した家康に代わって、宇都宮城を防衛しました。

この頃の秀康は武将としても優れており、血気盛んで、
自分自身も、武勇に自信を持っていました。

やがて上杉景勝が江戸に攻め入るという噂が流れ始めると、
秀康は大胆にも、景勝に直接「退屈なので我々と一戦交えましょう」といった内容の書状を送りました。
しかし景勝は、亡き父・上杉謙信の教えにより、大将の留守中に攻め入ることはしないとして、
合戦には発展しませんでした。

その後、関ヶ原の戦いで東軍が勝利を収めると、上杉景勝は秀康に降伏の仲介を依頼し、
秀康は家康に上杉家の赦免を願い出たと言います。

松平に戻る

関ヶ原の戦いの戦功を評価された秀康は、越前国68万石に加増・移封されました。
これは徳川家を除けば、加賀国の前田利長に次ぎ、全国で2番目に高い石高でした。
そして越前北ノ庄藩初代藩主となりました。

慶長6年(1601)には秀康が松平氏を名乗ることを許されると、
御家門の居城にふさわしい城となるよう、天下普請で福井城築城を開始しました。

徳川家や豊臣家から遠ざけられた一方で、
豊臣家臣の石田三成が、「若いのに状況判断が的確である」と家臣に話したエピソードや、
家康が秀康の判断力や威厳を称えた逸話なども残されています。

さらに慶長10年(1605)、弟の秀忠が将軍となりますが、秀忠も兄として敬い、
特別な扱いをしました。

慶長7年(1602)、秀康が江戸に参勤する道中の関所で、
当時の江戸へは鉄砲の持ち込みが禁じられていた為、役人が
「大名といえども鉄砲を持ち込むことはできない」と制止したところ、秀康は激怒しました。

この役人は慌てて江戸の秀忠に伺いをたてましたが、
秀忠は、秀康に殺されなくて幸いだったとだけ役人に伝え、咎めなかったといいます。

その数年後、秀康は34歳という若さで持病が悪化しこの世を去りました。

ちなみに秀康の嫡男・松平忠直の代では、
本多成重が福井藩から独立し丸岡藩を立藩しています。

見どころ

石垣

福井城 石垣
石垣
福井城石垣
石垣

石垣には笏谷石しゃくだにいしも使われているのが特徴的です。
笏谷石は薄青色が特徴の火山礫凝灰岩で、丸岡城など福井県の他の城にも見られます。

天下普請で築城されたというだけあり、刻印も見られます。

本丸内部からは雁木がんぎも広く見る事ができます。

福井城本丸雁木
福井城本丸雁木

天守は寛文9年(1669)年に焼失して以来再建されませんでしたが、
天守台には登る事ができるようになっています。

補足

雪が積もる季節は石垣上には登る事ができません。

福井城天守台
福井城天守台

天守台の上の石垣は昭和23年(1948)の福井地震によって被害を受けた様子がうかがえます。

御廊下橋

福井城廊下橋
福井城御廊下橋

御廊下橋は、歴代の福井藩主が登城する際の専用橋として使われていた橋です。

福井城の築城400年を記念して、2008年に西側の内堀に復元されました。
現在の橋は明治時代に写された写真を元に復元されました。

他に廊下橋がある城は、和歌山城、高松城で、大分府内城で、全国でも珍しい例です。

城郭検定対策

城郭検定マーク
  • 廊下橋が復元されている。
  • 石垣には笏谷石しゃくだにいしが使われている。
  • 福井城の前身は北ノ庄城
  • 天正11年(1583)秀吉の書簡によると、「城中に櫓高く築き天守を九重に上せ候」と北ノ庄城の事が記されている。

福井城も北ノ庄もどちらも出題歴があるよ!

周辺情報

北ノ庄城址・柴田神社

福井城 柴田神社
柴田神社

平成5年から開始された発掘調査によって城郭の一部と思われる石垣が発見されました。

お市の方、浅井三姉妹の他、柴田勝家像も造られています。

福井城北ノ庄柴田勝家像
北ノ庄 柴田勝家像

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