43.犬山城‐3人の天下人が欲しがった城の3度の落城

犬山城 日本100名城
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写真 尾張徳川家の領地内ながらも、一国一城令でも破却されませんでした。

後堅固と言われた犬山城はどんな城?

犬山城は美濃国と尾張国の境を流れる木曽川沿いに築かれています。

そのはじまりは、室町時代の応仁の乱の中、岩倉織田家の当主・織田敏広おだとしひろの弟・広近が
この地に砦を築いたと言われています。

それを織田信長の叔父・織田信康が改修して犬山城を築きました。

信康が戦死すると、その子・信清が城主となりますが、
信長と対立し敗れ、以降は池田恒興や織田勝長などが城主を務めました。

天正10年(1582)の本能寺の変以降は織田信雄配下となっていましたが、
天正12年(1584)小牧・長久手の戦いでは池田氏によって奇襲を受け、
その後羽柴秀吉方の本陣が敷かれる事となりました。

一度は信雄に返還されますが、信雄の改易後は豊臣秀次の領地となりました。

秀次が没すると、石川貞清さだきよが城主となりました。
この頃に美濃金山城の建物を解体移築したという説がありますが、
はっきりとした資料は残っていません。

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いでは、岐阜城、竹鼻城などと共に西軍の拠点となりました。

江戸時代に入ると平岩氏が城主を務めた後、尾張藩付家老の成瀬正成が城主になり、
以後江戸時代を通じて成瀬家9代の居城となりました。

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犬山城概要

基本データ

写真 最後まで個人所有だった珍しい城です。

別名白帝城
別名の由来 江戸時代の儒学者荻生徂徠が、中国の名城白帝城を詠った李白の詩にちなんで名付けた
所在地 愛知県犬山市
城地種類 平山城
縄張り形式 ほぼ連郭式
築城年代 1537年
築城者 織田信康
主要城主 織田氏・池田氏・石川氏・成瀬氏
文化財史跡区分 国宝・国指定史跡
天守の築城年代 1537年、1584~1590、1601年
天守の形式 望楼型
天守の構造 複合式 三重四階地下二階
現在の天守の状態 現存
現存する建築物 いくつかの門が移築され残る。
補足

犬山城の天守築城年代に関してはこれまで、
1537年頃に一・二重が建設され、1600年に三重に増築されたという説と、
1601年に一・二層が建設され、1620年頃に三重に増築されたという説がありましたが
令和3年の犬山市教育委員会の発表によると、
年輪調査によって1584~1590年頃に一重から三重までが一連で建設されたことが実証されました。

利用案内

アクセス名鉄犬山線・小牧線「犬山」駅から徒歩約15分
名鉄犬山線「犬山遊園」駅から徒歩約15分
開城時間 9:00~17:00(入場16:30まで)
入城料金 一般550円 小中学生110円
100名城スタンプ設置場所 城郭内(本丸模擬門2階の管理事務所)
スタンプ設置場所の開館時間 9:00~17:00
主な関連施設 犬山市文化資料館

関連サイト:国宝犬山城

補足

入城してすぐ左手を見ると、
入城門2階の管理事務所への階段があります。

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歴史予習

織田信長に敗れる:犬山城の戦い

犬山城を築城した織田信康が天文13年(1544)、
美濃国大名・斎藤道三との戦いで戦死すると、
その子・信清が犬山城主となりました。

信清は織田信長の従兄弟です。

信清の父・信康は岩倉の守護代織田伊勢守家の当主・織田信安の後見人で、
信長の父・信秀の兄弟です。
父親の代の頃は協力し尾張平定を目指していました。

しかし信清は、父・信康没後は、織田伊勢守家や織田弾正忠家からも独立し、
犬山城を本拠とし、自立した勢力となっていきました。

一方信長は、父・信秀が没すると、敵対していた斎藤道三と和睦を結び、
その証として道三の娘・濃姫を妻に迎えます。
そして織田弾正忠家の後継者となりました。

その後信長は清洲の織田大和守家や弟・信勝との家督争い、織田伊勢守家の信賢のぶかたに勝利し、
尾張平定を進めていきました。

この織田伊勢守家を信長が攻めた戦いが、浮野の戦い・岩倉城攻略と呼ばれています。

この時信清は信長を支援しましたが、追放された信賢の旧領地の分与を巡り、
信長と対立、挙兵しますが、信長軍によって支城を次々に攻め落とされ、
永禄7年(1564)、もしくは永禄8年(1565)には犬山城を包囲され、陥落しました。

その後は甲斐国に逃げ、甲斐武田の許で犬山鉄斎と称したそうな

羽柴秀吉に敗れる:小牧・長久手の戦い

本能寺の変で織田信長・信忠が自刃した後、
尾張は信長の次男・信雄のぶかつが治めることとなりました。

犬山城には信雄配下の中川定成が、五代城主として入りました。

しかし山崎の戦いで柴田勝家と織田信孝を滅ぼし、勢いに乗る羽柴秀吉と、
織田家の当主となっていた信雄が対立
するようになります。

この時信雄は徳川家康と同盟を組み、
後に豊臣vs徳川と言われる小牧・長久手の戦いへと発展します。

この戦いの中、時の城主・定成は伊勢での戦に出陣していたため、
犬山城はわずかな城兵を残すのみとなっていました。

その隙をついて、信長の旧臣・池田恒興が美濃から木曽川を渡って犬山城を急襲し、
犬山城は1日で落城となりました。

池田殿は後堅固と言われる美濃方面、つまり木曽川から犬山城に侵入したのじゃ。信清の後犬山城主を務めただけあるわ!

そして秀吉の本陣が犬山城におかれました。

小牧・長久手の戦いの後犬山城は一度信雄に返還されますが、
続いて豊臣秀次の領地となりました。

徳川家康に敗れる:関ヶ原の戦い

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いがおこりますが、
それより少し前から美濃や尾張、伊勢では前哨戦と捉えられる戦いが各地で起こっていました。

この時の城主は、小田原征伐の後に功を認められて、
尾張犬山城1万2千石を与えられた石川貞清でした。

貞清は石田三成の西軍に属していました。

その為犬山城も岐阜城、竹鼻城などと共に西軍の拠点となりました。

中でも犬山城は、同じ尾張でも、清州城の福島正則が東軍についていた為、
西軍の最前線の拠点でした。

郡上八幡城主・稲葉貞通いなばさだみちとその兄弟・方通まさみち、黒野城主・加藤貞泰かとうさだやす
多良城主・関一政せきかずまさ、岩手城主・竹中重門たけなかしげかどらが詰め、守備しました。

ところが援軍として犬山城に入っていた者達は、岐阜城が落城すると、
東軍の井伊直政と通じて寝返り、貞清も説得されて降伏し、開城しました。

こうして犬山城は合戦の舞台にこそならなかったものの、
東軍に敗れて開城する形となりました。

ですが時貞清は、犬山城を放棄し関ヶ原の本戦に参陣しています。

関ヶ原の戦いに東軍が勝利すると、その後は徳川家臣が城主となりました。

貞清は犬山城に拘禁していた東軍の木曾の家臣を解放したので命だけは助けてやったわ

元和3年(1617)には尾張藩付家老・成瀬正成が城主となり、以降9代成瀬家の居城となりました。

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見どころ

古風な外観

犬山城の望楼型天守
犬山城

犬山城は現存天守の中でも築城年代が古く、
外観は前期望楼型の古風な外観を残しています。

柱や梁などの建物の軸組が表面に見えている真壁造りの天守に、
花頭窓、唐破風、廻縁高欄を備えています。

唐破風、廻縁高欄は1620年以降に付け加えられたものとみられています。

ちなみに犬山城の花頭窓には窓としての機能はなく、
天守の格を上げる為の装飾としてつけられています。

石落としは袴腰型と呼ばれるものが採用されています。

鯱は瓦製です。

犬山城 付け櫓
犬山城 付け櫓

周辺情報

犬山市文化資料館

犬山の歴史や文化を展示紹介しています。

アクセス:愛知県犬山市大字犬山字北古券8番地
名鉄「犬山」駅下車 徒歩約15分

関連サイト:犬山市ホームページ

城下町

犬山城 城下町
犬山城下町

犬山は現在も江戸時代とほぼ同じ町割りのまま城と城下町が残っている全国でも数少ない街です。

有楽苑の茶室如庵は国宝にも指定されています。

犬山城 城下町 国宝 有楽苑内の茶室
有楽苑の茶室如庵

城郭検定対策

城郭検定マーク
  • 木曽川沿いの丘陵に立つ国宝の現存天守で、望楼型三重四階地下二階、付け櫓を備えた複合式天守
  • 二の丸から本丸に向かう右手に御成櫓、左側には小銃櫓があった。
  • 唐の時代の詩人李白は『早発白帝城』(意味:早に白帝城を発す)という詩を残しており、それが元となって荻生徂徠によって別名を白帝城と名付けられた。
  • 花頭窓は窓じゃない。
  • 廃藩置県で廃城になると、愛知県の所有となった。
  • 濃尾地震によって、天守の東南角の付櫓が壊れる等の被害を受けたがその修復を条件に成瀬氏に再び譲渡され、平成16年(2006)まで個人所有だった。

現存天守で国宝は対策必須だね!

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