53.二条城‐重要な歴史的出来事をわかりやすくまとめ!見どころ解説

二条城 二の丸御殿 日本100名城
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写真 時代の転換点となったビックイベントに注目!

豪華絢爛な桃山文化を感じられる城

二条城は徳川家康によって京都に滞在するための宿所として築かれました。

家康が征夷大将軍拝賀の祝宴を行った城で、
最後の将軍慶喜が大政奉還を表明した城であることから、
徳川幕府の開府と終焉の城と言われています。

三代家光の頃に後水尾天皇行幸のために寛永の大改修が行われ、
本丸御殿や天守が建築され、現在の姿になりました。

現在は国宝に指定されている二の丸御殿をはじめ、
二十棟あまりの建造物や庭園が残されています。

1994年(平成6年)には、ユネスコ世界文化遺産にも登録されています。

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二条城概要

基本データ

写真 日本三大平城の一つです。

別名
別名の由来
所在地 京都府中京区
城地種類 平城
縄張り形式 輪郭式
築城年代 1603年、1626年
築城者 徳川家康、家光
主要城主 徳川氏
文化財史跡区分 国指定史跡、国指定特別名勝、 国宝6棟、重要文化財22棟など
天守の築城年代 1624年
天守の形式 層塔型
天守の構造 5重5階、または5重6階
現在の天守の状態 天守台のみのこる
現存する建築物 二の丸御殿、東大手門、隅櫓、唐門、土蔵など

利用案内

アクセス京都市営地下鉄東西線「二条城前」駅から徒歩すぐ
開城時間 8:45~16:00(閉城 17:00)
二の丸御殿観覧受付時間 8:45~16:10
入城料金 一般620円 中学生350円 小学生200円
100名城スタンプ設置場所 総合案内所、大休憩所
スタンプ設置場所の開館時間
主な関連施設 二条城障壁画 展示収蔵館

関連サイト:世界遺産 元離宮二条城

補足

二の丸御殿は毎年1月・7月・8月・12月の毎週火曜日、12月26日~28日、1月1日~3日は観覧休止となっています。

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歴史予習

4番目の二条城

実は二条城という名前の城は、
場所を変えられてはいるものの戦国時代から江戸時代までに4城もありました。

最初の二条城

織田信長が室町15代将軍・足利義昭のために築いた将軍御所で、旧二条城と呼ばれています。

しかし後に義昭と信長の関係は悪化し、
信長によって旧二条城は徹底的に破却され、その一部は安土城に転用されたそうです。

2番目の二条城

2番目の二条城も信長によって築かれました。

この城は、正親町天皇おおぎまちてんのうの皇子である誠仁親王さねひとしんのうに贈ったもので、
二条御所や下御所と呼ばれています。

本能寺の変の時に、信長の子・信忠が籠もったのが、この二条御所です。

3番目の二条城

3番目の二条城は豊臣秀吉によって造られました。

場所は二条御所と現在の二条城の中間のあたりです。

当時この地にあった妙顕寺を移転したため、妙顕寺城とも呼ばれます。
その後聚楽第が造られた為、すぐに使われなくなってしまいます。

4番目の二条城

そして4番目に造られたのが、現在の二条城で、徳川家康によって造られたものです。

三英傑がそれぞれ二条城を造ったんだね!

3番目の二条城までは、いずれも跡地には石碑が置かれ、
距離も遠くはないので二条城に行く際に寄ってみるのもいいかもしれません。

二条城会見

豊臣秀吉は念願の天下統一を果たしましたが、跡継ぎとなる秀頼がまだ幼かった為、
秀頼が成長するまでの間の国政を徳川家康に託してこの世を去ります。

しかし家康は徐々に力をつけ、関ヶ原の戦い後には征夷大将軍となります。
さらに政権を自分の子・秀忠に譲る事で、徳川家の世襲制を世に知らしめ、
豊臣家に政権を返さない事を事実上宣言する形となりました。

それでも大坂には豊臣秀頼が健在で、最盛期ほどの力はなくとも、
どうにか豊臣家を臣従させる事はできないかと考えていました。

1611年、後陽成天皇の上位に関連して上洛していた家康は、
秀頼の参上を要求しました。

これによって実に8年ぶりとなる家康・秀頼の対面、
二条城会見が実現する事となりました。

そしてこれが大坂の陣を引き起こすこととなります。

二条城当日、家康は秀頼上洛の際の諸大名らの出迎えを禁止しました。

これは、豊臣家には従う大名はいないのだ、と秀頼に知らしめるためでした。
それでも加藤清正・浅野幸長・藤堂高虎・池田輝政ら、豊臣恩顧の大名は出迎えに行っています。

秀頼が二条城に入る際も、御輿の両脇には加藤清正と浅野幸長が控え、
警護の足軽たちもただ足軽ではなく、ひとかどの武士が揃っていたそうです。

さらにその風貌は身長が190㎝ほどあり、美形の青年であったと言います。

猿と呼ばれた秀吉の息子で、最後に会ったのはまだ秀頼が11歳の頃でしたから、
これには家康や家康と共に庭先まで秀頼を迎えに出た大名らも驚いたといいます。

秀頼はその中を威風堂々と歩いたそうです。
さらに秀頼の太刀を預かり共に歩いている木村重成もまた、歴史に残る美男子で、
たちまち騒ぎとなりました。

さらに館へ入りいざ会見が始まると、秀頼は礼儀正しく、
小さな事にも動じず、見事な立ち振る舞いを見せました。

家康はこの会見の事を

愚かだと聞いていたが、天下人の風格があり、少し話しただけでも賢い事がわかった。

と言い、立派に成長した秀頼に驚いたそうです。

この会見によって家康は、
賢く、天下人の風格があり、さらに周囲を魅了するカリスマ性のある秀頼を危険視し、
未だ豊臣に臣従する家臣らの期待を理解し、豊臣家を滅ぼす事を決意したのでした。

大政奉還を宣言

慶応3年(1867)、15代将軍・徳川慶喜は二条城で、
政権を朝廷に返上する大政奉還を宣言します。

それにより倒幕の名目を失った、岩倉具視や西郷隆盛をはじめとする討幕派は、
王政復古の大号令を出します。

大政奉還の時点では、長らく政権から離れていた朝廷には政治の経験が乏しく、
徳川幕府による政治が続いていました。

でも王政復古の大号令により幕府の権利を剥奪し、完全に徳川を排除しようとしたのです。

それでも慶喜は統治する意思を見せ、また朝廷もそれに信任を与えてしまいます。

新政権では慶喜の処遇に関して会議もされましたが、
大名級の人達は慶喜を擁護し、どんどん甘い処分になっていきます。

これに焦った討幕派の西郷隆盛は、江戸市中取締の庄内藩新徴組の屯所を襲わせるなどして
旧幕府を挑発し、1868年に無理やり鳥羽・伏見の戦いをおこし、戊辰戦争が勃発していく事となりました。

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見どころ

唐門

二条城 唐門
唐門

桃山時代末に建造され、三代家光の頃、寛永の大改修の際に改修され現在の姿となりました。

二の丸御殿の正門にあたり、切妻造、桧皮葺の四脚門でその屋根の前後に唐破風が付けられています。

門には長寿を意味する「松竹梅に鶴」や、聖域を守護すると言われる「唐獅子」、
繁栄や不死の象徴として描かれた「蝶と牡丹」、長寿を意味する「亀と仙人」など、
豪華絢爛な極彩色の彫刻によって徳川家永遠の繁栄が表現されています。

唐門には天皇家の紋章である「菊紋」が付けられていますが、
菊紋の金具の下から徳川家の紋章である「葵紋」が修復時に発見されています。

これは大政奉還によって、徳川家繁栄の象徴であった二条城が
朝廷下に入った際に張り替えられたものといわれています。

二の丸御殿

二条城 二の丸御殿
二の丸御殿

二の丸御殿は東南から北西にかけて、
遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の全6棟が雁行形に立ち並ぶ御殿です。

江戸初期に完成した住宅様式である書院造で、
内部の廊下は鶯張りうぐいすばり、部屋数は30室以上もあるそうです。

内部は、「松鷹図」をはじめ、虎や豹、桜や四季折々の花を描いた
狩野派の障壁画で装飾されています。

現在の式台、大広間、黒書院、白書院の障壁画のほぼ全てが模写障壁画に変えられていますが、
こちらの原画が、二条城障壁画 展示収蔵館に収蔵で展示公開されています。
※年4回、計240日公開

この二の丸御殿の大広間で大政奉還が表明されました。

二の丸御殿内は撮影禁止となっています。

障壁画公開日に関する情報:二条城障壁画 展示収蔵館

天守台

写真準備中

1606年に徳川家康によって建てられた天守は、
現在の清流園のあたりに望楼型の5重天守として建てられたそうです。

後に天守は大和郡山城天守が移築されたという説がありますがはっきりとはわかっていません。

この天守は三代将軍・家光の頃に行われた寛永の大改修時に淀城に移築されました。

それに伴い築かれたのが現在残る天守台の場所で、
1624年に伏見城の天守を移築改造し、層塔型5重5階、または5重6階の天守が造られました。

しかし寛延3年(1750)に落雷で焼失して以降は再建される事なく
現在は石垣だけが残っています。

天守台の石垣は切込接ぎで、多くの転用石が使用されていて、
中にはさかさ地蔵や平城京羅城門から運ばれた礎石と伝わるものもあるそうです。

石垣

写真準備中

二条城の本丸の西側(裏側)のトイレのそばに、
前述の旧二条城の石垣が移築復元されています。

織田信長が室町幕府第15代将軍、足利義昭の為に造ったものです。

二条城の外堀の石垣は江戸中期以降に修復工事されていて、
家康の築城時や寛永の大改修の頃のものはほとんど残っていませんが、
北面の少し折れ曲がっている部分に、修復工事前のものと思われる石垣が残っている
と言われていますがはっきりとした事はわかっていません。

城郭検定対策

城郭検定マーク
  • 徳川家康が築城し、征夷大将軍拝賀の祝宴をした。
  • 三代・家光の頃に後水尾天皇の行幸の為に寛永の大改修が行われた。
  • 後水尾天皇の中宮は徳川和子で、家光の妹。
  • 慶長16年(1611)には二条城で豊臣秀頼と徳川家康による二条城会見が行われた。
  • 15代将軍慶喜は二の丸御殿大広間で大政奉還を宣言した。
  • 二の丸御殿遠侍は最大規模で、一から三の間には「竹林群虎図ちくりんぐんこず」が描かれている。車寄には鸞鳥らんちょうの彫刻があり、朝廷からの使者の為の勅使の間は書院造となっている。
  • 二の丸御殿式台は、表側が式台の間で、裏側が3部屋の老中の間。
  • 二の丸大広間は欄間彫刻や松が描かれており、豪華絢爛で最も格式高い間
  • 二の丸黒書院は長押の上下を別々のキャンバスとしている。
  • 二の丸白書院は寝室として使われた所で、金碧障壁画ではなく水墨画が描かれている。

障壁画や彫刻にも注目しておこう!

周辺情報

新選組 壬生屯所旧跡

写真準備中

京都市指定有形文化財に指定されている八木家の屋敷で、
現在も15代八木家当主の方が管理しています。

幕末には新選組の近藤勇、土方歳三らの宿所となった旧壬生屯所です。

関連サイト:新選組発祥の地 壬生屯所旧跡 八木家

アクセス:阪急電鉄「大宮駅」、京福電鉄「四条大宮駅」から徒歩10分
京都市バス「壬生寺道バス停」下車 徒歩1分
駐車場有

本能寺

画像準備中

本能寺が日蓮大聖人の教えを弘める法華宗本門流の大本山で、本能寺の変の舞台となりました。

関連サイト:法華宗大本山本能寺【公式】

アクセス:京阪電車 「三条駅」下車 西へ徒歩5分
阪急電車 「河原町駅」下車 北へ徒歩10分
地下鉄東西線 「市役所前駅」すぐ
駐車場あり

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