【三大築城名人】戦国武将・黒田官兵衛とはどんな人物か?城一覧や建築の特徴をまとめ!

黒田官兵衛 築城名人図鑑
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黒田官兵衛は、加藤清正、藤堂高虎と並んで三大築城名人といわれています。

通称黒田官兵衛、黒田孝高くろだよしたかは、キリシタン大名でもあり、洗礼名はドン・シメオン、
隠居後は黒田如水とも呼ばれました。

築城名人としても有名な孝高ですが、軍事面でも優れた武将で、
三英傑に重用され、江戸時代には筑前国福岡藩の祖となりました。

そんな孝高の生涯とかかわった城一覧、建築の特徴をまとめました。

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黒田官兵衛の生涯

小寺氏の家臣の家に生まれる

天文15年(1546)、播磨国の姫路で小寺氏の家老・小寺(黒田)職隆もとたかの嫡男として誕生しました。

黒田氏はその才覚を買われ、天文14年(1545)に官兵衛の祖父・重隆が姫路城代になっており、
孝高の母親は小寺政織こでらまさもとの養女・岩姫です。

補足

官兵衛の父とされる職隆は官兵衛の実父ではなく養父であり、
実父はこれまで祖父といわれてきた重隆であるという説もあります。

永禄5年(1562)、17歳の頃には父と共に土豪を征伐し、初陣を飾ります。
この頃から小寺官兵衛を名乗るようになります。

初めは祐隆すけたか、次に孝隆よしたか孝高よしたかになるけど官兵衛が一番しっくりくるね!

永禄10年(1567)頃、官兵衛は22歳で家督と家老職を継ぎ、
政職の姪にあたる櫛橋伊定くしはしこれさだの娘・光姫を正室に迎え、姫路城代となりました。

そして翌年には、嫡男・黒田長政が生まれます。

小寺氏時代・初めての築城

毛利輝元と織田信長が勢力を拡大するなか、
播磨国は地理的に織田家と毛利家の間に挟まれていました。

天正3年(1575)、長篠の戦いで武田勝頼を破った信長を評価していた官兵衛は、
主君・小寺政職こでらまさもとに織田氏への臣従をいち早く進言します。

天正元年(1573)、小寺氏の使者として岐阜城を訪問した際には、
信長から褒美として、名刀「圧切長谷部へしきりはせべ」を拝領したと言われています。

聞いたことあるやつだ!国宝に指定されてるよ!

その後、小寺氏は織田信長の家臣・豊臣秀吉の配下に入りました。

天正5年(1577)、織田信長による中国征伐では、官兵衛が先鋒を務める事になりました。

居城としていた姫路城は、中国征伐の重要拠点となったため、豊臣秀吉に譲渡し、
代わりに、姫路城から南に4.5kmの場所にある国府山こうやまを修復し、父と共に居城としました。

これが黒田官兵衛初の築城となりました。

天正6年(1578)、別所長治べっしょながはるが反旗を翻し、毛利氏も呼応、
一方で孝高も宇喜多氏を調略するなど、双方の調略が激しさを増していました。

あっちで謀反、こっちで裏切り、そっちでも誰かが寝返ってごちゃごちゃだったんだね。

そんな中で織田家の重臣で摂津国を任されていた荒木村重が
信長に謀反を起こし、有岡城に籠城しました。

この時、主君の小寺氏も村重に呼応しようとしたために、
官兵衛は有岡城に乗り込み説得を試みますが、逆に幽閉されてしまいます。

それを信長は、官兵衛が寝返ったと思い激怒し、息子・黒田長政を殺すように命じました。

裏切ったやつは許さん!

生涯側室をとらず愛妻家で家族思いの官兵衛が、家族を残して寝返るわけないじゃない!

しかし天正7年(1579)、有岡城が陥落し、官兵衛は奇跡的に救出されました。
1年幽閉されていた官兵衛は、頭髪は抜け落ち足腰は弱まり、変わり果てた姿となっていたそうです。

そのときには官兵衛の足は不自由になっていたといいます。

秀吉は、官兵衛が寝返っていなかったことを知り、
息子・黒田長政を処刑したことを泣いて詫びたと伝えられています。

信長公の命令で仕方なかったんじゃ…

主君の為に一人で説得を試みたのに幽閉された上、息子まで殺された官兵衛が気の毒すぎるよ!

ところが後に、実は竹中半兵衛たけなかはんべえが、長政を殺さず匿っていたと判明します。

補足

竹中半兵衛とは、黒田官兵衛と共に豊臣秀吉に仕え、「両兵衛」と呼ばれた謀将です。

ただし、それが判明した時、匿っていた半兵衛は、
黒田親子を気遣う手紙を遺して、すでに病死していました。

黒田家の家紋は元々藤巴ですが、この時の感謝を忘れないように
竹中家の家紋である黒餅を明治頃まで代々使うようになりました。

黒田家家紋」
藤巴 出典 家紋ドットネット
黒餅 黒田家竹中家家紋
黒餅 出典 家紋ドットネット

竹中半兵衛と黒田官兵衛の絆はこれだけでは終わらず、
子の代でも続いていました。

関ヶ原の戦いでは官兵衛の子・長政は東軍で活躍しますが、
半兵衛の子・重門は西軍に属した為、長政の説得で東軍に鞍替えしています。

そろそろ話を戻すよ!

天正8年(1580)、秀吉は2年間の難攻の末にようやく別所氏の三木城を陥としました。

主君・小寺氏は、荒木村重に続いて、信長に謀反をおこしていましたが、
信長の嫡男・織田信忠によって討伐され、
さらに官兵衛が救出されると逃亡し、黒田家と小寺家の主従関係が崩壊しました。

この三木合戦の際、官兵衛と竹中半兵衛は、
籠城する別所長治に武力で対抗するのは難しいと判断し、
兵糧攻めを秀吉に提案し、攻略したと伝えられています。

両兵衛・・・どっちもかっこよすぎるよ・・・・

織田氏時代・2度目の築城

三木城の戦いの後、官兵衛は織田家臣として秀吉の与力となり、
これ以降名字に黒田を用いたと考えられています。

天正8年(1580)年には播磨平定の功績で、信長から山崎1万石を与えられ、
のちに築ノ丸城を自分の居城として修理しました。

これが黒田官兵衛の2回目の築城とされています。

復帰後は天正9年(1581)、
毛利軍との戦いで、兵糧攻め「鳥取の渇殺しかつえごろし」を行ない、鳥取城を攻略、

天正10年(1582)年、備中高松城攻略の際には、
水攻めを豊臣秀吉に提案するなど、名軍師ぶりをいかんなく発揮しました。

鳥取の渇殺しは鳥取城に籠城していた者が餓えに苦しみ、
傷付いた人を、まだ息があっても解体して食べたといわれています。

鳥取城を守っていた吉川経家は、凄惨な状況にいたたまれなくなり、
秀吉への降伏を決意したそうです。

人を食べるほど追い込まれるなんて・・・

補足

高松の水攻め、三木の干殺し、鳥取の渇殺しは、豊臣秀吉の三大城攻めと呼ばれています。

豊臣氏時代・3度目の築城

天正10年(1582)、本能寺の変で信長が死去し、家臣達は混乱に陥る中で、
官兵衛は秀吉に天下を取る好機であると進言しました。

官兵衛は、秀吉に中国大返しを促し、毛利氏との講和を進言し、
その後、豊臣軍の殿しんがり軍を担当して、山崎の戦いで明智軍を討伐します。

天正11年(1583)、官兵衛は大坂城の縄張りを担当し、
この築城にあたり、普請奉行となっています。

これが黒田官兵衛3回目の築城です。

天正14年(1586)に開始した九州平定では、
作戦指揮を担当し、1年足らずで豊前国内の主要な城を全て攻略します。

その後、島津氏が降伏すると、九州平定は完了します。

戦後は度重なる合戦で荒廃した町の復興を石田三成らと共に監督しました。

この時、太閤町割を実施し、現在も冷泉町や御供所町にその名残があります。

補足

太閤町割・・・区画整理事業で、碁盤の目のように整備された町割と、〇〇流と呼ばれる区画で区切った。

天文15年(1546)小寺氏家臣の家に誕生
永禄5年(1562)初陣
永禄10年(1567)家督を継ぎ小寺家家老となる
永禄11年(1568)黒田長政が生まれる
天正6年(1578)有岡城に幽閉される
天正7年(1579)救出される
天正10年(1582)本能寺の変
天正11年(1583)普請奉行となり大坂城の縄張りを担当する
ここまでの年表

優秀な家系に生まれて、若いころから活躍していたんだね!

豊前国主時代・4度目以降の築城

戦後、九州平定の功績を讃えられ、豊前6郡12万石、およそ豊前国の3分の2の領土を与えられ、
馬ヶ岳城に入城しました。

しかし馬ヶ岳城は山城で、城下町が作りにくいため、
城を平地に移すことを考えました。

そこで天正16年(1588)、広くて平坦な中津の地に中津城を築城し、拠点を移します。

これが黒田官兵衛4回目の築城となりました。

さらに高松城、天正17年(1589)には広島城の設計も担当したと言われています

翌天正17年(1589)には家督を長政に譲り中津城をほとんど任せ、
官兵衛は秀吉の側近として引き続き仕えて猪熊、伏見の京屋敷や天満の大坂屋敷を拠点としました。

この時如水と改名しています。

天正18年(1590)、天下統一の総仕上げとなった小田原征伐では、
北条氏政・氏直父子を小田原城に入って説得し、無血開城させる功績を立てました。

文禄元年(1592)からの朝鮮出兵文禄の役、慶長の役では築城総奉行となり、
秀吉から拠点となる名護屋城の設計を命じられました。

同年の第二次晋州城攻防戦においての後藤基次らが用いた亀甲車の設計や、
和式城郭の縄張りなどにも携わっています。

また、朝鮮出兵の際、朝鮮の八山はちざんという良工を日本に連れ帰りました。

補足

八山は来日後、福岡藩御用窯となり今に続く高取焼の始祖となります。

徳川氏時代

慶長3年(1598)8月、豊臣秀吉が死去すると、官兵衛は徳川家康に従います。

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いが始まると、嫡男・長政が黒田氏配下の軍勢を率いて、
東軍側に参加し、東軍の勝利に大きく貢献しました。

一方官兵衛は中津に残り、貯金を全額使って浪人を集めると、
その浪人を上手くまとめ上げ、もぬけの殻となった中津城を守りました。

石垣原の戦いでは大友軍を撃破し、この戦いは九州版の関ヶ原の戦いとも言われます。

九州内で西軍側に付いた大名を次々と撃破し、九州を制圧していきました。

戦後、関ヶ原の功績により長政に筑前52万石が与えられると、
官兵衛にも勲功恩賞、上方や東国での領地加増が提案されます。

しかし官兵衛は平穏な生活がしたいとこれを辞退し、
博多に移住して、福崎の地名を福岡と改称して、長政共に福岡城の築城に着手しました。

これが黒田官兵衛最後の築城となりました。

補足

家康が官兵衛の能力を高く評価し、それを恐れたため
あえて恩賞を与えなかったという説もあります。

また関ヶ原の際に、官兵衛が息子・長政に
「その時左手は何をしていた」と言い放ったエピソードが有名です。

関ヶ原合戦後、長政が「家康が手を差し伸べてお礼を言ってくれた」と官兵衛に報告すると、
官兵衛は、「家康が差し伸べてきたのは、右手か左手か」と長政に聞きました。

これに長政は「右手でした」と答えると、
官兵衛は「お前の左手は何をしていたのか(なぜ左手に刀を持って家康を刺さなかったのか。)」
と言ったというものです。

頭のよかった官兵衛がこんな無謀な事を考えるとは思えないね。笑
創作だと思うけど、こんな話が残っているほど、官兵衛が天下を取る事を望んだ人もいたのかもね。

隠居後

福岡城の築城をはじめると、太宰府天満宮に草庵を構え移住しました。

太宰府天満宮の境内には、秀吉の影響で茶の湯に親しむようになった官兵衛が
茶の湯のために使用していた「如水の井戸」が現在も残っています。

晩年は、築城中の福岡城内三の丸に御鷹屋敷を構え、
政治に関与することなく隠居生活を送りました。

自身の死期を悟った官兵衛は、家臣を罵るようになり、
自分から長政に家臣の忠義を向けさせる奇策をとったといいます。

さらに殉死を禁止したとも伝えられ、官兵衛の人間性も現れているように感じられます。

慶長9年(1604)、官兵衛は福岡城の完成を見ないまま59歳の時に
療養のために移り住んでいた京都伏見藩邸にて逝去し、崇福寺に葬られました。

最後まで家族のため、家臣のためにできる事を考えていたのかな。

天正16年(1588)中津城を築城する
天正17年(1589)長政に家督を譲る
天正18年(1590)小田原城を無血開城
文禄元年(1592)築城総奉行となり名護屋城を設計
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで親子共に功績をあげる
慶長9年(1604)死去
ここまでの年表

ちなみに晩年にも、官兵衛が天下を狙っていたというエピソードが残っています。

死に際に、息子・長政に言遺したとされるもので、

関ヶ原でもう少し石田三成が持ちこたえたなら、九州から攻め上り、日本を掌中に収めたかった。そのときは、長政を捨てて、一博打打とうと思ったのだ。

と言ったそうです。

このエピソードは、慶長5年(1600)に官兵衛が吉川広家に宛てた書状に、
「関ヶ原の戦いがあともう1か月も続いていれば、中国地方にも攻め込んで華々しい戦いをするつもりであったが、家康の勝利が早々と確定したために何もできなかった」
と記されており、これが元になっていると考えられます。

官兵衛は勇ましい武将だ!っていう誰かの熱い思いが伝わってくるね。

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かかわったとされる城一覧

時期所在地100名城選定状況内容
天正8(1580)年頃国府山城(妻鹿城)兵庫県修復
天正8(1580)以降篠ノ丸城兵庫県修理
天正11(1583)大坂城大阪府日本100名城縄張り
天正14(1586)中津城大分県続日本100名城築城
天正17(1589)広島城広島県日本100名城縄張り
天正18(1590)高松城香川県日本100名城縄張り
 〃石垣山城神奈川県続日本100名城縄張り
天正19(1591)名護屋城佐賀県日本100名城縄張り
慶長6(1601)福岡城福岡県日本100名城築城

いつ頃、どの程度かかわったかはっきりしないもの、諸説あるものも含めて一覧にしました。

長政が福岡城と共に築城を始めた六端城ももしかしたら官兵衛が手伝っていたかもしれません。

朝鮮出兵の際に韓国に築いた倭城は機張城(キジャンソン)をはじめ、
黒田官兵衛によるものと推定されているものが複数あります。

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官兵衛の建築の特徴

海や川を生かした縄張

官兵衛は物資の流通や情報を重要視し、沿岸部や河口部を選び平城を築きました。

山城に比べて平城は防御性能が劣りますが、
官兵衛は海や川から水を引き込み、広大な水堀をめぐらせることによって
その弱点をカバーしています。

中津城は周防灘に臨む中津川河口の地に築城され、堀には海水が引き込まれています。
高松城も海城ですし、広島城は太田川河口の三角州に築かれています。

実践的な城と城下町

中世の城は山城が多く、城下町から離れていましたが、
官兵衛は城を経済の中心地として発展させるべく、城下町を含めた築城計画を立てました。

官兵衛が縄張を手がけた大坂城や福岡城なども、
城と城下町が一体化した巨大城郭でした。

特に居城となった福岡城の城下町は、お寺の数が日本で京都の次に多く、
戦になったら、その場所の墓石を鉄砲の玉よけにするという狙いや
本堂と庭を集まってきた武士たちの宿舎にするよう考えられていたと言われています。

そして後には萩がそれを真似たと言われるほど、実践的な城下町でした。

築城の名手加藤清正が福岡城を見て驚いたエピソードは有名だよね!

左曲がりの構造

城には複雑に堀や曲輪が配置されており、枡形を含め、
直進して本丸へはたどり着けないよう設計されています。

もちろん片方だけにまわり続けるわけではなく、混在するのは当然です。

ですが、右利きの人間は足も右利きの人が多く、
右足のが蹴る力が強いので左に曲がるのが得意ということになります。

となれば城の防衛としては右回りのほうが有効と考えられます。

ところが黒田官兵衛は左曲がりを多く作る事で知られています。

大坂城にも左曲がりの枡形がいくつか設置されている点や、
名護屋城も同様に左曲がりに設計されています。

しかし実際には、高取城のように意図的に右曲がりを多用したと思われる城もありますが、
江戸城の螺旋は左回りですし、その有効性もわかりません。

官兵衛が意図的に左曲がりを多用したのか、
そうだとしたら、それはなぜかはわかっていません。

地形から考えて無理のないように左右が決められてたんじゃないかなぁ。。。

まとめ

黒田官兵衛はその才能を買われ三英傑に重用されましたが、
その優秀さゆえに三英傑に警戒された武将でもあったと伝えられています。

その時代には珍しく一夫一妻を貫いた愛妻家であった官兵衛。
主君の為単身で行動を起こし幽閉されるが家臣によって奇跡的に救出された過去。

このように人としても優れた武将であるエピソードを残しながら、

鳥取の兵糧攻めや高松の水攻め、町の復興に、
数々の名城を手掛ける築城手腕など
知略に優れた軍師であった事もわかります。


天下を狙っていたという逸話も含め、
官兵衛は慕われ、期待されていた武将だったのではないでしょうか。

官兵衛の造った城やゆかりの地、生涯、竹中半兵衛との関係に関する書籍はたくさんありますが、
朝鮮出兵や倭城を含めて知りたい方にはこちらがおすすめです↓

黒田官兵衛をめぐる65の城 (タツミムック) ムック – 2013/11/15

写真が多く非常に読みやすいです。

参考サイト

福岡県立図書館
デジタルライブラリ>貴重資料の紹介から、
黒田家譜 ・ 黒田続家譜や福岡城下町図を閲覧する事ができます。

家紋ドットネット

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