天下普請の目的や意味は?建てられた城一覧【城郭検定対策】

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全国の大名に城を造らせる大事業

天下普請とは、統一政権下で全国の大名に城造りを割り振って手伝わせる事です。

従来城とは自分の領地内に、自分の領地の材料や人員を動員して築くものでした。

しかし天下普請では各地の大名が召集され、
大名が人件費などを含めて担当しました。

天下人にとっては、自分の権力を誇示できるとともに、
巨大な城の築城もしやすくなり、
諸大名に負担をかける事で力を削ぐこともできました。

特に徳川政権下では天下普請により多くの城が築かれましたが、
それ以前にも織田信長、豊臣秀吉が同じようなシステムで築城をしています。

それぞれの代表的な城に加えて、
天下普請で造られた城一覧、各担当大名をまとめました。

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三英傑の天下統一事業

天下普請に先駆けた安土城

安土城
安土城

安土城は織田信長によって天正4年(1576)に築かれました。

総奉行は丹羽長秀、普請奉行に木村高重、大工棟梁には岡部又右衛門、
縄張奉行には羽柴秀吉、
石奉行には西尾吉次、小沢六郎三郎、吉田平内、大西某、
石塁の築造は穴太衆が担当、
瓦奉行には小川祐忠、堀部佐内、青山助一らがあたったとされています。

建物内の障壁画は狩野永徳父子が担当しています。

当時は日本一の天主と言われた6階の天守を備え、
総石垣の壮麗な城でしたが、築城から約3年で完成しています。

信長のこの天下統一事業は、
領国内の武士や三河・徳川家の武士、京や奈良・堺の大工や職人など、
西日本を中心とした手伝い普請でした。

豊臣政権下の天下普請

豊臣政権下に入ると、
天正11(1583)に大坂城の築城がはじまりました。

実は信長によって築城が始められていたともいわれていますが、
本能寺の変によって死亡し、その完成を見る事はありませんでした。

この大坂城は権威を示すシンボル的な存在で、
一方京都滞在中の居城として築かれたのが聚楽第です。

大坂城の総奉行としては黒田孝高(官兵衛)が縄張を担当したと考えられています。
また毛利氏を動員し、瀬戸内海の船を利用し、小豆島の石を大量に運んでいます。

黒田氏は最古参の家臣の一人、毛利氏は中国大返し後に縁戚関係を結んで形式上は豊臣政権下に入っていた大名だね。

聚楽第は天正14年(1586)に築城が開始され、
大坂城とは同時進行で建設が進められました。

大坂城の築城には7万から10万人を動員したという記録が残っていますが、
同様に聚楽第にもかなりの人員が動員されたと考えられています。

聚楽第については不明な点が多く、はっきりとした事はわかりませんが、
前野長康が造営奉行を務めたといわれています。

前野氏も秀吉が信長に仕えていた頃からの最古参の家臣の一人だね。

天正19(1591)には朝鮮出兵の為の基地として名護屋城の築城を命じます。

縄張りを黒田孝高、
普請奉行は黒田長政、加藤清正、小西行長、寺沢広高らが任じられ、
築城は、松浦鎮信まつうらしげのぶ、有馬晴信、大村喜前おおむらよしあき五島純玄ごとうすみはるら九州の諸大名を中心に行われました。
作事も分担され、本丸数寄屋や旅館などの作事奉行を長谷川宗仁が担当していました。

名護屋城は文禄元年(1592)、約8か月で完成しました。

秀吉最後の天下普請は伏見城の築城です。

伏見城は三度に渡って築城され、最初の城は文禄元年(1592)に
秀吉の隠居城とするために築かれた指月伏見城
後に近隣の木幡山に再築されたものを木幡山伏見城と呼び、
さらに木幡山伏見城は、伏見城の戦いで焼失した後に、
家康によって再建された徳川期とに分けられます。

指月伏見城は、普請奉行に佐久間政実、
石材は小豆島から、木材は土佐国、出羽国からも調達され、
室町時代から安土桃山時代に京都に築かれた淀古城から天守と櫓を、
関白秀次切腹事件の後には破却された聚楽第からも建物が移築されています。

徳川政権下の天下普請

家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開府すると、
天下普請で築城・修築された城は、伏見城、加納城、彦根城、膳所城、二条城、福井城、江戸城、駿府城、名古屋城、高田城、丹波亀山城、篠山城など
次々と城を造っていきました。

関ヶ原の戦いの戦場となり落城した城を復興したり、交通の要衝にも多く築かれています。

順番に見ていきましょう。

彦根城
彦根城

膳所城
家康によって、慶長6年(1601)東海道の押さえとして、大津城を廃し膳所崎に城を築かせました。
徳川政権下の天下普請としては最初の城と言われています。

縄張りは藤堂高虎が担当しています。

伏見城(木幡山)
伏見城の戦いによって秀吉時代の主要な建築物は全て失われ、
関ヶ原の戦いで勝利した家康は慶長6年(1601)に再建をはじめました。

普請奉行は藤堂高虎です。

加納城
関ヶ原の戦い後破却された岐阜城の代わりの城として慶長6年(1601)に築かれました。
城主は徳川家康の娘・亀姫の夫である奥平信昌おくだいらのぶまさ(貞昌)です。

縄張は家康自身が行ったとされ、
普請奉行は本多忠勝とし、近隣の大名を動員しました。

福井城
家康の次男・結城秀康が関ヶ原の戦いの戦功第一位として北ノ庄を拝領し、
慶長6年(1601)には知行割を実施し、築城を開始しました。

秀康が松平氏を名乗ることを許されると、御家門の居城にふさわしい城となるよう、
北陸の諸大名を中心に普請を命じ約6年の歳月をかけて完成しました。

本丸と二の丸の縄張りは家康によるものとされています。

二条城
家康が京都の守護及び上洛時の宿所として慶長7年(1602)に築城を開始しました。

造営総奉行に京都所司代板倉勝重、
作事大工棟梁は中井正清が任じられ、西国諸大名に造営費用および労務の割り当てが行われました。

彦根城
徳川四天王の一人・井伊直政は居城として新しい城の築城を計画していましたが、
関ヶ原の戦傷が癒えず死去してしまいました。
その後家督を継いだ井伊直継が幼少であったため、
井伊家家老・木俣守勝きまたもりかつが家康と相談し、直政の遺志を継ぎ慶長8年(1603)に築城を開始し、
20年かけて完成しました。

築城には公儀御奉行3名が付けられ、尾張藩や越前藩など7か国12~15ほどの大名が動員されました。
大津城、佐和山城はじめ近江国の諸城は破却され、彦根城の建設物に利用したとされています。

江戸城
関ヶ原の戦い以前から家康の居城であった江戸城を天下普請により拡張しました。

江戸城は何度も大規模な改築工事が天下普請によってされていますが、
慶長期としては、
慶長8年(1603)に神田山を崩して日比谷入江を完全に埋め立て、
慶長11年(1606)には、諸大名から石材を運送させ、増築しています。

外郭石壁普請は細川忠興、前田利常、池田輝政、加藤清正、福島正則、浅野幸長、黒田長政、田中吉政、鍋島勝茂、堀尾吉晴、山内忠義、毛利秀就、有馬豊氏、生駒一正、寺沢広高、蜂須賀至鎮、藤堂高虎、京極高知、中村一忠、加藤嘉明らが名を連ねています。

天守台の築造は黒田長政、石垣普請は山内一豊、藤堂高虎、木下延俊、
本丸普請は吉川広正、毛利秀就が務めています。

さらに
慶長12年(1607)、関東、奥羽、信越の諸大名に命じて天守台および石塁などを修築し、
奥羽、信越の伊達政宗、上杉景勝、蒲生秀行、佐竹義宣、堀秀治、溝口秀勝、村上義明などは
堀普請を任じられ、慶長期の天守が完成します。

さらに元和期、寛永期にも天下普請による拡張・修築が行われ、50年以上かけて整備しました。

駿府城
駿府周辺の大名であった頃の家康の居城でした。

江戸幕府開府後すぐに秀忠に将軍職を譲った家康でしたが、
この頃の家康は政治的影響力を持ち続けたため大御所と呼ばれ、
慶長11年(1606)、大御所にふさわしい隠居城として大改修されました。

丹波亀山城
戦国時代に信長の命で明智光秀によって築城されましたが、
家康もこの城を重要視し、慶長14年(1609)頃に西国大名に命じて大修築しました。

縄張りは藤堂高虎が担当しています。

篠山城
慶長14年(1609)に家康の命で山陰道の要衝である丹波篠山盆地に築城が始まりました。

普請総奉行を池田輝政、
縄張りを藤堂高虎が担当しました。
15か国20大名の助役によって6か月ほどで完成しました。

名古屋城
慶長15年(1610)家康は九男・義直の尾張藩の居城として、名古屋城の築城を始めました。

普請奉行に滝川忠征、佐久間政実、牧長勝ら5名、
天守台石垣は普請助役として加藤清正、
普請助役としては、加藤清正以外に、寺沢広高、細川忠興、毛利高政、生駒正俊、黒田長政、木下延俊、福島正則、池田輝政、鍋島勝茂、毛利秀就、加藤嘉明、浅野幸長、田中忠政、山内忠義、竹中重利、稲葉典通、蜂須賀至鎮、金森可重、前田利光の外様大名が負担し、
延べ558万人の工事役夫が動員されたと言われています。

作事奉行に大久保長安、小堀政一ら9名が当たり、大工頭は中井正清が担当しました。

伊賀上野城
慶長5年(1611)に築城されました。

高石垣が有名な伊賀上野城ですが、
大阪包囲網の城の一つとして築かれ、その高石垣は西側にしか築かれていません。

高田城
家康の六男・松平忠輝の居城として築かれました。

縄張りと工事の総監督は伊達政宗が担当しました。
13大名が動員されましたが刻印などは見つかっていません。
慶長19年(1614)、約4か月ほどで完成しました。

こんなに短期間でたくさん造れたのも天下普請だからだね!

高田城
高田城

関ヶ原の戦いの復興事業として修復されたり、交通の要衝に築かれただけではなく、
徳川一門の居城を天下普請で築かせる事によって
諸大名の力を削ぎつつ、権威をより高めていったように感じられます。

そしていよいよ慶長19年(1614年)に大坂の陣が勃発します。

まるで大坂の陣の為に準備してたみたいだね。

大坂の陣によって豊臣氏が滅びた後は、


元和5年(1619)に二条城を天下普請によって改修しました。

これは秀忠の娘・和子の後水尾天皇への入内に備えたもので、
この時の縄張は秀忠自らが藤堂高虎と共に行ったとされています。

大坂城
大坂城

そして最後に忘れてはいけないのが大坂城です。

大坂の陣によってついに豊臣勢力を滅ぼすと、
江戸幕府は大坂藩を廃止して大坂を幕府直轄領とし、元和6年(1620)から
2代将軍・徳川秀忠の命によって大坂城の再築工事が開始されました。

この工事は主に西国大名を中心に第一期工事では47大名を動員して西の丸、二の丸北部・東部、三の丸を、
第二期工事では58大名を動員して本丸一帯を、
第三期工事では57大名が動員されて二の丸南部と3期、およそ9年にわたる普請によって完成しました。

こうして豊臣色を消し去り、徳川が天下統一を果たしたと示す事となりました。

この大坂城の再築工事の総奉行は藤堂高虎です。

石垣石は瀬戸内海の島々や兵庫県の六甲山系の石切丁場の花崗岩や、
生駒や笠置、加茂など木津川沿いからも採石されている他、
福岡県からも運ばれたと言われていて、その規模がうかがえます。

大坂の陣後に天下普請が行われた江戸城、大坂城、二条城は
いずれも政治機能を整備した側面が強いように感じられます。

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諸大名への影響

江戸幕府による度重なる天下普請を諸大名はどのように捉えていたのでしょうか。

まずはメリットです。

全国から様々な分野に精通した専門家が集まった為、
高度な最新技術を習得する事ができた。

特に縄張りの担当等でよく名前が挙がった藤堂高虎は、
層塔型天守の考案者でもあり、高虎の建築技術は急速に広がり、
江戸時代のスタンダードとなっています。

一方デメリットです。

人件費や資材の切り出しや運搬など、
いずれも各大名もちだった為、大きな負担となった。

慶長19年(1614)、江戸城の石壁の修築が行われましたが、
大坂の陣に出陣した大名は著しく消耗した為、大坂夏の陣終結後、
家康は3年間天下普請を止めるように指示をしています。
それだけ負担が大きかったのでしょう。

名古屋城の築城の際には、福島正則が池田輝政に
「家康公の城ならまだしも、なぜ息子の城の手伝いをやらなくてはならないのか」
と不満をもらし、清正が正則の発言を戒めたという逸話も残っており、
参加した大名自身もデメリットを大きく感じていたようです。

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まとめ

天下普請の城の多くは、持ち寄った石に刻印を入れ、
誰のものかわかるようにしていました。

大坂城や名古屋城など大規模な城では様々な刻印を見る事ができますので、
探してみるのもおもしろいかもしれません。

また担当した区画によっては使われている石が違ったり、
その積み方や石の色合いの違いも楽しむことができます。

名古屋城 石垣刻印
名古屋城 石垣刻印

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