武田信虎の生涯‐なぜ信虎は追放されたのか、どのような人物か考察してみる

絹本著色武田信虎像(武田信廉画、大泉寺蔵) 戦国武将紹介
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戦国最強の甲斐の虎と恐れられた武田信玄の父・信虎もまた、
一代で甲斐を平定した名将でした。

武田三代の領国統治の中心となった躑躅ヶ崎館(武田氏館)を整備したのも、
東国の戦国大名で、初めて徳政令を発令したのも、この武田信虎なのです。

そんな信虎の生涯と、嫡男・武田信玄によって追放された歴史上の大事件をまとめてみました。

暴君、悪行で追放された、そんなイメージがあるけどどんな人だったんだろう?

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武田信虎の生涯

信虎の誕生

信虎は、代々甲斐国の守護であった武田家の17代当主・武田信縄の嫡男として誕生しました。

しかし信虎誕生時、武田家は家督争いによる内紛状態にありました。

きっかけは、信虎の祖父・武田信昌たけだのぶまさが、
家督を嫡男の信縄ではなく、信縄の異母弟である油川信恵あぶらかわのぶよしに譲ろうとしたことでした。

明応7年(1498)、明応地震の影響により両者は一時的に和睦すると、
家督は信縄が継承することになりました。

しかし永正2年(1505)信昌が死去し、さらに永正4年(1507)には信縄が続けて死去すると、
信虎が家督と甲斐守護職を継承し、再び信恵との家督争いへと発展していきます。

信恵は弟の岩手縄美・栗原昌種(惣次郎)や国衆らと結び、勝山城で挙兵しました。

ところが永正5年(1508)の勝山城の戦いで信恵は信虎に大敗する事となりました。
信虎は勝山城に夜襲をかけると、信恵とその息子らを討ち取りました。

さらに同年の坊ケ峰の戦いにおいても、
甲府に侵攻してきた小山田弥太郎を撃破し、
信虎は武田宗家を統一し、名実共に武田の当主となったのでした。

なんと家督相続時信虎は14歳、勝山城の戦いに勝利し、
長く続いた武田家の内紛を見事おさめてみせたのは15歳の頃でした。

パパ虎めちゃくちゃすごい人なんだね!!!

甲斐統一

ところがまだ幼い信虎が当主となったばかりで
不安定なタイミングを狙って、今川氏親が甲斐への侵攻を目論見ます。

永正10年(1513)、甲斐国河内領の穴山氏当主・穴山信懸あなやまのぶとお
息子・清五郎に殺害される事件が起こると、
その後穴山氏は今川に帰属するようになります。

さらに続いて永正12年(1515)甲斐西部の国衆で武田氏の庶流でもある、
大井信達・信業のぶなり親子が今川方に帰属します。

信虎はこれを討つべく小山田信有と共に、富田城を包囲しますが敗退します。
さらにこれを機に今川は甲斐への侵攻を開始し、勝山城を占拠されてしまいます。

しかし、同年武田勢が反撃を開始し、今川勢を三河国の吉田城まで敗走させ、
翌永正14年(1517)には、吉田城を陥落させます。

これを見た今川氏は和睦を申し出て甲斐から撤退することとなりました。
さらに同年、大井信達も降伏し、娘を正室として信虎に嫁がせ、和睦しました。

そしてこれを機に、甲斐の国衆は相次いで信虎方へと鞍替えし、甲斐の統一を果たしたのでした。

大井夫人と言えば信玄のお母さんだね!

内外の対立

大永年間には対外勢力との争いが本格化していきます。

大永元年(1521)、今川方の武将である福島正成を中心とする今川軍が甲斐へ再び進出し、
河内地方を占領すると、大井氏の富田城を落とし、さらに甲府へと迫りました。

同年、飯田河原で両軍が激突すると、信虎は福島正成や富士氏の軍勢を次々と撃破し、
今川勢を駿河へ退却させ、武田軍が勝利を収めます。

そしてこの戦いの最中に嫡男・晴信(信玄)が生まれています。

大永4年(1524)に北条氏が武蔵国への侵略をはじめると、
信虎は両上杉と同盟を結び、北条氏と敵対して以降は長く攻防が続きます。

天文4年(1535年)には今川攻めを行い、そこに北条氏も出兵し合戦となり、
小山田氏や勝沼氏が敗北、信虎の弟・信友も失う事となります。
その後今川氏の跡継ぎ問題が起こるとそれに介入し、
信虎は今川義元を支持、長女を義元に嫁がせ、今川氏の仲介で嫡男・信玄に公家の三条家から嫁をとり、今川氏との間で甲駿同盟を締結します。

甲斐内部では、享禄元年(1528年)、諏訪郡へ侵入し諏訪頼満、頼隆父子を攻撃します。
さらに享禄4年(1531年)には信虎が上杉氏より側室を迎える事に反発が起こり、
飯富虎昌らが諏訪氏と反乱を起こします。
その後、諏訪氏との争いは、信虎と頼満との間で和睦が結ばれて収束します。

天文9年(1540)、佐久郡を攻略し、
天文10年(1541)には、小県郡に出兵し、海野、禰津氏らを追放します。

山梨県都留市立図書館ホームページによると、この天文9年の佐久郡攻略は
一日に36城を落とすという勢いだったといいます。1)

対外勢力との対立に加え内部でも国衆らによる抵抗が起こり、
まさに戦乱の世らしい、戦の絶えない日々でした。

追放

これまで見てきたように信虎は武闘派の優れた武将でした。

しかしこのような度重なる軍事行動による負担は大きく、
徐々に信虎の甲斐国統治に対する反発は大きくなりました。

そしてついに天文10年(1541)、
武田信玄が板垣信方や甘利虎泰らの支持を受け、信虎は追放されることとなりました。

信虎が娘婿の今川義元と面会するため駿河国に行ったところ、
信玄は甲斐と駿河の国境を封鎖し、信虎が帰国できないようにしたのでした。

行き場を失った信虎は、義元のもとに身を寄せ、
強制的に隠居させられることになったのです。

一方甲斐では息子・信玄が譜代の家臣の支持を受け、
武田家の当主となりました。

48歳の時に追放された武田信虎は、義元のいる駿河で、
隠居料を与えられながら暮らしましたが、
京へ上るなど悠々自適の生活を送ったと思われます。

というのも、毎年信虎には多額の隠居料が武田家から支払われていましたし、
給地も存在していたようです。
この信虎の隠居料は現在の価値にして1億円近いとされています。

そして天正2年(1574)、三男・信廉の居城である高遠城に身を寄せ、
同年に81歳の時で死亡しました。

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信虎の悪人説

信虎の追放は、息子に追放された事件として歴史的にも有名で、
甲陽軍艦、勝山記高白斎記こうはくさいき塩山向嶽禅菴小年代記えんざんこうがくぜんあんしょうねんだいきなどに記録されています。

そしてそのどれもが信虎を暴君であったと伝えています。
『塩山向嶽禅菴小年代記』によると、信玄が信虎を追放した際、
領民たちは喜んだと記されています。

これらの資料によると、信虎が、諫言した家臣を50人以上斬殺した、
信虎が飼っていた猿を殺した家臣を手打ちにしたとか、妊婦の腹を裂いた、
といった悪行が伝えられているのです。

ところが同時代の一次史料や伝承などに、信虎の悪行を証明する決定的な記録は残っておらず、
信虎追放を正当化するために印象操作が行われたという見方もあります。

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追放の理由を考察してみる

もし信虎が極悪非道な暴君ではなかったとしたら、なぜ追放されたのでしょうか。

『甲陽軍鑑』によると、信虎と信玄はもともと不仲で、
信虎は嫡男・信玄を廃嫡して4男・信繁に後を継がせようと画策したとあります。
それを知った信玄が家督相続の為に父を追放したとも考えられます。

また、これまで見てきたように、
信虎の軍事戦略により、農民や国人には重い負担がかかっており、
そういった反発を信虎は武力で抑え込んできました。

武田配下の国人たちは、信玄の時代においてもそれぞれがある程度力を持っていましたし、
信虎の時代にあっては自立性もより強く、完全な配下とは呼べるような関係ではなかった為、
信虎の統治によって家臣の心が武田家から離れる事を危惧した信玄が、
追放という選択をしたのかもしれません。

例えば小県郡の真田氏は、信虎の侵攻を受けて、上野国へと追放されていましたが、
信玄から真田幸隆に対して「父が悪かった。これからはわしを助けてくれ」といった詫びを入れられ、
旧領を回復され武田の臣下になったという逸話があります。

このように信玄は、信虎の代では争いが絶えなかった甲斐を統一し、
一筋縄ではいかない国衆をまとめあげる事ができたからこそ
戦国最強とまで言われるようになったのかもしれません。

信虎の悪行は印象操作であるという前提で追放の理由を検討してみましたが、
この追放の際に戦はおこらず、所謂完全無血のクーデターであった事から考えると、
信虎に付いた家臣はいなかった、もしくは極めて少なかったと思われます。
つまり信虎と家臣らとの間で対立があったのは事実だったのではないでしょうか。

とすると国人、武田家臣らとの対立はほぼ決定的で、
甲陽軍艦に残る信虎の悪行伝説の数々が創作であったとしても、
良い統治者ではなかったと言えるかもしれません。

ところで、父を追放した信玄ですが、
一方で信虎に対しては隠居料を支払い続ける約束をしており、
父を憎んでいたとは考えられない、もしくは憎んでいたとしても心から拒絶する事はなかったとも捉えられます。

さらに信虎による徳政令は、享禄元年(1528)に甲斐を対象として発令されたもので、
この頃一揆なども起きていない事から、
災害への対応などを取り決めたものだと考えられています。
であれば民衆を顧みない暴君とはかなり異なる印象を受けます。

そうだとすると、信玄が甲斐や武田家を思って信虎追放を決断した可能性の他に、
家臣や力のある国衆らに突き上げられ、
追放せざるを得ない状況だった事も考えられるかもしれません。


*甲陽軍艦…信虎時代を背景にした信玄を中心に、武田家や家臣団の逸話や事跡の紹介、軍学、儀礼に関する記述がされている。内容や年号には誤りもあり、信憑性に懸ける点も多い。

*勝山記(妙法寺記)…武田氏や郡内領主・小山田氏の政治的動向に加え、富士北麓の生活記録、災害などが記録されている。

*高白斎記…信虎誕生から信玄の嫡男・武田義信の祝儀までの約56年間が記録されている。原本や成立事情などは不明。

*塩山向嶽禅菴小年代記…臨済宗向嶽寺の歴代の住職によって書き継がれてきた甲斐の年代記。永和2年(1376)から明和6年(1769)までの約400年間の記録で、歴代住職の入院と示寂のほか、諸行事や世間の重要事件などが記載されている。

参考サイト:国立国会図書館デジタルコレクション
引用:1)都留市立図書館 https://www.lib.city.tsuru.yamanashi.jp/

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