ビックダディ徳川家康の妻子たちと御三家の成立

徳川家康 戦国武将紹介
スポンサーリンク

江戸幕府初代将軍・徳川家康には正室・継室のほかにも、
16~20人を超える側室がいたとされ、
息子娘も、正式に記録されているだけでも16人ほどいます。

さらに落胤らくいんや隠し子もいた可能性が考えられ、
養子や猶子ゆうしを合わせると、現代では想像できないほどの大家族でした。

今回はその中でも、家康との間に子をもうけた正室・側室と、
妻子の略歴などをご紹介していきます♪

補足

猶子・・・擬制的な親子関係を結ぶ事。養子とは違い相続を目的としない。しかし実際には明確な区別がされていない場合もある。

スポンサーリンク

正室

築山殿つきやまどの

家康の子供 家系図
クリックで拡大

長男・信康、長女・亀姫の生母

通称瀬名姫としても知られる築山殿は家康の正室です。

築山殿の父母ははっきりとはわかっていませんが、
今川義元の義妹とその家臣との間に生まれた、今川義元の姪と言われています。
家康が人質として駿府の今川家で過ごし、元服の2年後に婚姻しました。

正室でありながらなかなか苦しい生涯を送った女性で、
最後には長男・信康と共に殺害されています。

信康

松平宗家の居城、岡崎城主を務めた人物で家康の長男です。

信長の娘である徳姫を正室としました。
娘の登久姫は小笠原秀政の正室に、熊姫ゆうひめは本多忠政の正室になっています。

後に本多忠政と熊姫の子・忠刻には同じく家康の孫娘である千姫が嫁いでおり、
いとこでありながら姑となっています。

しかし後に家康の命によって築山殿の殺害後に自刃しています。
織田信長に謀反を疑われ、家康がやむなく命じたという通説の他、
家康と信康の父子間対立が原因だとする説もあります。

亀姫

信長の提案により新城城主・奥平信昌と婚約しました。

関ヶ原の戦い後に夫・信昌が美濃加納に封じられると加納御前・加納の方と呼ばれるようになりました。
この信昌の加納城は天下普請で造られた城の一つです。

加納御前と言えば宇都宮城釣天井事件にも登場していますね。

スポンサーリンク

側室

西郡局にしのこおりのつぼね

家康の子供 家系図
クリックで拡大

女・督姫の生母

上ノ郷かみのごう城主・鵜殿長持うえどのながもちの娘で、上ノ郷城落城後に家康の側室となりました。

督姫

武田勝頼に続いて織田信長が没すると、
甲斐国や信濃国を巡って徳川家康と小田原北条氏による領土争いが始まります。(天正壬午の乱)

しかし戦えば手痛い打撃を受けると考えた両者は、
旧織田領の甲斐と信濃を徳川氏が、上野国を北条氏が治めることで和睦し、
その際に督姫は氏直の正室となりました。

北条氏滅亡後は池田輝政に再嫁しました。

於万の方(小督局こごうのつぼね

家康の子供 家系図
クリックで拡大

二男・秀康、永見貞愛の生母

元々は正室・築山殿の奥女中でしたが、家康初めての側室となりました。
※家康は側室と認めなかったとも言われています。

於万の方の懐妊を知った築山殿が嫉妬して、
於万の方を裸にし、木に縛りつけたという逸話は非常に有名です。

秀康

家康とは3歳になるまで対面を果たせず、冷遇を受けた幼少期だったようです。
冷遇の理由は、築山殿を憚ったため、双子で生まれてきたためなど諸説あります。

兄・信康の切腹後には最年長の男子でありながらも羽柴秀吉の元へ養子にだされました。
秀吉の元では我が子同然に可愛がられたと言いますが、
秀吉に実子が誕生すると結城氏の婿養子となりました。

関ヶ原の戦い後は越前北庄68万石に加増移封され、
以降越前松平家として福井藩藩主を務めました。

徳川家から遠ざけられて育つも実力でついには御一門と認められ
68万石の福井藩主となった秀康の生涯についてはこちらの記事で詳しく書いています。

永見貞愛ながみさだちか

家康の落胤で秀康の双子の可能性があると考えられている人物です。

当時双子は畜生腹ちくしょうばらと呼ばれ、忌み嫌われていました。
これは獣が一度に何匹も産むことからくる言葉で、女性への暴言です。
さらに男子の場合は、跡目相続時に混乱を招かないようにする意味でも、
1人は養子に出すなどする習慣がありました。

秀康の双子は生れてすぐ亡くなったとされていますが、
貞愛が実はその双子だったのではないかと言われているわけです。

貞愛は母の実家である永見家に預けられ、そこで育ちました。
後に知立神社の神職を伯父・永見貞親から譲り受けたそうで、
徳川家や内政と関わる事はなかったようです。

補足

落胤・・・父親に認知されない庶子で、正式な血統の一族とはみなされないので、正当な系図には記載されていないことが多い。

西郷局さいごうのつぼね

家康の子供 家系図
クリックで拡大

三男・秀忠、四男・忠吉の生母

通称お愛の方。

三河西郷氏は決して身分の高い家柄とは言えず、
西郷の局自身もはじめは下級武士に嫁いでいましたが、夫の死後に従兄・西郷義勝の継室となります。
しかしまたも夫の戦死によって未亡人となってしまいます。

やがて叔父・西郷清員の養女として家康の側室となると、家康最愛の側室とまで言われました。

秀忠

言わずと知れた江戸幕府二代将軍です。

今回は詳細は割愛します。

忠吉

東条松平家第3代当主の松平家忠が病死すると、家督を継いで三河東条城1万石を領することになりました。

続いて駿河沼津城4万石に転封され、
家康の関東移封後には武蔵忍城10万石を与えられました。

関ヶ原の戦い後は論功行賞として尾張国および美濃国に52万石を与えられ、
大出世を果たし、清州城に入りました。

忠吉が嗣子のないまま亡くなると、家康はその名跡の存続させず、九男・義直を清洲に移し、
尾張徳川家を創設した為、東条松平家は断絶しました。

下山殿

家康の子供 家系図
クリックで拡大

三女・振姫、五男・信吉の生母

甲斐武田家臣・秋山越前守虎康の娘と言われています。
穴山信君(梅雪)の養女として家康に仕え、武田滅亡後に側室になりました。

振姫ふりひめ

豊臣秀吉の命により蒲生氏郷の嫡男・秀行に嫁ぐ事となりました。

ところが秀行が急死すると、
今度は家康の命により和歌山藩主で浅野長政の次男・浅野長晟あさのながあきらと再婚することとなり、
子を置いて蒲生家を去りました。

信吉

藤井松平家の松平信吉と区別するため一般的に武田信吉と呼ばれていますが、
正式には松平信吉です。

穴山氏当主・信治(信君の子)が16歳で死去した為穴山武田家は断絶していましたが、
下山殿を信君の養女として家康に差し出していた為、
信治の生母・見性院が信吉の後見人となって武田氏の名跡を継承させました。

小田原征伐後には家康の関東移封に従って下総国小金城3万石を与えられ、松平姓に復しました。

茶阿局ちゃあのつぼね

家康の子供 家系図
クリックで拡大

六男(または七男)・忠輝、七男(または六男)松千代の生母

近江金谷の百姓の娘と伝えられ、同郷の鋳物職人と結婚して子もうみました。
しかし夫が殺害され逃れる途中で鷹狩りに来ていた家康の目にとまり側室となりました。

忠輝

生母・茶阿局の身分が低いため、下野栃木城主・皆川広照みながわひろてるに預けられて育ちました。

弟(もしくは兄)の松千代が早世したため、兄弟の名跡を継ぐ形で長沢松平氏の家督を相続し、
武蔵国深谷1万石を与えられました。

その後伊達政宗の娘と縁組を行うと下総国佐倉5万石に加増移封されました。

ところがさらに後わずか40日後に信濃国川中島藩12万石に加増移封され、松代城主となります。

慶長10年(1605)には新将軍・秀忠の名代として、上洛を拒否した大坂の豊臣秀頼に面会しています。

後に越後国高田藩30万石を加封され、合計45万石を領する事となりました。
さらに越後加封当初は福島城を居城としていましたが、高田城を天下普請により築城しました。

順風満帆に見えた忠輝の人生でしたが、
大坂夏の陣では遅参という失態を犯し、家康の怒りを買いその後家康の最期まで
面会を許される事はありませんでした。

家康の没後は兄・秀忠から改易を命じられて伊勢国朝熊に流罪とされ、
正式に飛騨国高山の金森重頼に預けられましたが、後に信濃国諏訪の諏訪頼水に預け替えとなりました。

そして幽閉先である諏訪高島城にて死去しました。

野風の笛の逸話が有名です。

松千代

長沢松平家当主で深谷藩主・松平康直が嗣子がないまま没したため、
生後間もなく長沢松平家を継ぎ、深谷藩主となりました。
しかし、僅か6歳で没すると、同母兄の忠輝が継ぐ事となりました。

於亀の方

家康の子供 家系図
クリックで拡大

八男・仙千代、九男・義直の生母

京都石清水八幡の祠官志水清康の娘と言われています。

一度は竹腰定右衛門正時との間に正信を生みますが、
寡婦となった後家康の側室となりました。

この正信は尾張藩附家老を務めた竹腰家の祖となります。

仙千代

長兄・信康の傅役ふやくで徳川十六神将の一人だった平岩親吉に嗣子がいなかったため、
家康の配慮により親吉の養嗣子となりましたが、6歳で亡くなりました。

義直

尾張藩初代藩主で尾張徳川家の祖となる人物です。

義直はわずか2歳で甲府藩主となりました。
しかし甲斐へ入国することはなく、家康や生母・於亀の方とともに駿府城に在城し、
甲府城に在城する平岩が家康の意向を受けて甲斐統治を行いました。

元服後は死去した兄・忠吉の遺領を継いで尾張国清洲藩主になります。
後に家康が天下普請によって名古屋城を築くと、本拠地を移しました。

政庁後は藩政を自ら行ない、灌漑用水の整備や新田開発などを積極的に行ったり、
検地による税制改革なども行いました。

また、学問を好んで蓬左文庫を創設し、現在の図書館の走りとなる文庫を造った他、
歴史書『類聚日本紀』を書きました。
さらに日本武術も好み、柳生利厳から新陰流兵法の相伝を受けるなど、
非常に勤勉だったようです。

蔭山殿かげやまどの

家康の子供 家系図
クリックで拡大

十男・頼宜、十一男・頼房の生母。

於万の方とも言われます。

上総の正木左近大夫邦時(頼忠)の娘ですが、母親が北条家臣・蔭山氏広と再婚した事により、
蔭山の一族となったといわれています。
小田原征伐後に江川英長の養女として家康の側室となりました。

頼宜

紀伊和歌山藩の初代藩主で紀州徳川家の祖となる人物です。

2歳の頃に、兄・信吉の遺領、常陸水戸藩20万石を与えられましたが、
頼宣は水戸には入らず、駿府の家康の許で育てられました。

元服後には肥後熊本藩主・加藤清正の次女・八十姫と婚約し、
翌年、駿府藩50万石に転封されました。

家康と豊臣秀頼が京都二条城で会見を行った際は、兄・義直と共に東寺まで出迎えました。
後に、義直と共に返礼の名代として大坂城の秀頼を訪問しています。

元和5年(1619)、紀伊国和歌山55万5千石に転封となり、紀州徳川家の祖となります。
入国後は、和歌山城の改築、城下町の整備など、紀州藩繁栄に尽力しました。

ところが慶安4年(1651)の慶安の変において、幕閣に謀反の疑いをかけられ、
10年間紀州へ帰国できませんでした。
その後、疑いは晴れて無事帰国しましたが、拡張整備中だった和歌山城の増築は、
中止しなければならなかったとも言われています。

頼房

常陸水戸藩の初代藩主で水戸徳川家の祖となる人物です。

3歳の時に常陸下妻10万石を、次いで兄・頼宣の駿河転封によって新たに
常陸水戸25万石を領しましたが、兄同様駿府城の家康の許で育てられました。

市姫が早世すると、家康の命によりお梶の方の養子となりました。

家康の死後駿府から江戸に移った後も水戸には赴かず、
青年時代のほとんどを江戸で過ごし、
3代将軍・家光の親政となった後も基本的に江戸に滞在する事が多かった為、
これが先例となり水戸藩主は江戸常住である定府となっていきました。

これには家光が、頼房を頼り、江戸に常住させたかった背景もあると考えられており、
水戸藩主を副将軍と称する論拠ともなりました。

お梶(勝)の方

家康の子供 家系図
クリックで拡大

五女・市姫の生母

武蔵稲付城主・太田新六康資の娘もしくは養女とする説がありますが
出自ははっきりとはわかっていません。

家康の意向で一度は松平正綱に嫁ぎましたが、
後に家康の元に戻り、側室となり、市姫を生みました。

しかし市姫は早世したので、家康の命によって陰山殿の子で8歳になる頼房を養子としました。

市姫

伊達政宗と関係をさらに深めるため、
家康の命で政宗の嫡男・忠宗と婚約するも、3歳で亡くなりました。

スポンサーリンク

松姫

家康の子供 家系図
クリックで拡大

松姫は家康の四女として生まれましたが、
わずか4歳で早世しており、生母もはっきりとわかっていません。

調べてみたところ、
①後北条氏の旧臣、間宮豊前守康俊の娘・普照院が生母とする説、
②茶阿局が生母とする説、
③お梶の方が生母とする説 などがありましたが、
普照院(お久の方)が有力となっているようです。

まとめ

今回は家康の妻子を紹介してみました。

永見貞愛は一説に秀康の双子とされていますが、
正式な記録上は生まれてすぐに無くなっている為、
家康には16人の実子がいたことになります。

そしてそのうち3人が徳川御三家と呼ばれる最高位の親藩となりました。

補足となりますが、御三家は将軍家や御三卿同様に、
徳川姓を名乗ることや、三つ葉葵の家紋使用が許されている別格のお家なわけですが、
水戸家は頼房が駿河徳川家断絶後の寛永13年(1636)になってから、
ようやく徳川姓の使用を許可され、それまでは名字が定まっていませんでした。

その為将軍家に後嗣が絶えた時は、尾張家か紀州家から養子を出すと定められていました。

そういった経緯もあり他の2家よりも官位・官職の点では下ではありますが、
前述の通り江戸常住であった事などから
5代将軍・綱吉のころに御三家と呼ばれるようになりました。

補足

尾張・紀伊の二家は従二位権大納言
水戸家は正三位権中納言

秀忠の妻子や御三卿についてはまた次回の記事でご紹介します♪



おまけ

さてここからは先ほどまでの図では触れていない部分をおまけとしてご紹介します。

※あくまでおまけとして見てください。

家康の子供 家系図
クリックで拡大

於竹の方

下山殿の娘としてご紹介した三女・振姫には、
於竹の方が生母ではないかとする説もあるようです。

於竹の方の法名は良雲院です。

武田家臣・市川の娘とされていますが、他にも武田信玄や穴山信君、
秋山虎康の娘という説なども存在しており、定かではありません。

お松と松平民部

お松は「法光院」という法号以外は、生年・没年などが一切記録されていません。
そして家康の落胤とされる松平民部の生母であるとも言われています。
後に兄・秀康の養子となったとも言われていますが、信憑性はなんとも言えません。

その他の落胤

実はお松と松平民部以外にも家康の落胤という伝承がある人物が複数人います。
中でも『徳川実紀』や『土井系図』に登場する土井利勝落胤説は有名です。

しかしいずれもお松と民部同様著しく信憑性に欠ける為、今回はここまでにします。

参考サイト:郷土士のブログ

タイトルとURLをコピーしました