144.大垣城‐歴代城主一覧や歴史、見どころ、おあむ物語等の逸話をまとめて紹介!

大垣城 続日本100名城
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写真 旧国宝に指定されていた天守を外観復元!

関ヶ原の戦いでは石田三成が本陣とした城

大垣城は築城年代、築城者共に特定されていませんが、
天文4年(1535)に美濃守護・土岐一族の宮川安定(安貞)が築いたという説と、
明応9年(1500)に竹腰尚綱が安八郡牛屋郷に築城した牛屋の城を前身とする説があります。

戦国時代になると氏家直元によって大規模な改修がされ整備されました。

さらに伊藤祐盛が4重4階の天守閣を築き、後に石川氏によって総堀が加えられ、
久松松平氏により天守が改修されたと考えられています。

関ヶ原の戦いでは西軍の中心人物である石田三成らの主力部隊が入城しました。
大垣城の戦いについての逸話、おあむ物語は歴史予習の項目でご紹介していきます♪

関ヶ原の戦い以降は徳川譜代大名が数家入れ替わった後、
戸田家の居城となり明治を迎えました。

大垣城は旧国宝にも指定されていた城ですが空襲により失われ、
現在は外観復元天守が建てられています。

それでは大垣城の歴史や見どころをご紹介していきます!

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大垣城概要

基本データ

写真 艮隅櫓、乾隅櫓も外観復元されています。

別名巨鹿城 きょろくじょう、麋城 びじょう 
別名の由来 巨鹿・・・大きく立派な城ということ。巨は大、さしがね、定規のことで、鹿は動物のシカ、人間社会では政権や権威の座を意味している。
麋・・・ナレシカ、ミギワ、ホトリなど水辺のことを意味し、大きくて立派と言う巨鹿と同じ意味も持つ。明治時代から呼称された。
所在地 岐阜県大垣市
城地種類 平城
縄張り形式 連郭輪郭複合式
築城年代 1500年?
築城者 不明、氏家直元
主要城主 竹腰氏、氏家氏、伊藤氏、岡部氏、久松松平氏、戸田氏
文化財史跡区分 市指定史跡
天守の築城年代 1594年、1620年、1959年(外観復元)
天守の形式 初期 望楼型、1620年以降層塔型
天守の構造 複合式3重4階
現在の天守の状態 外観復元
現存する建築物

利用案内

アクセスJR「大垣」駅南口徒歩7分
開城時間 9:00~17:00(入館は16:30まで)
※火曜日定休
入城料金 200円 18歳未満無料
100名城スタンプ設置場所 天守内
スタンプ設置場所の開館時間 9:00~17:00(入館は16:30まで)
主な関連施設

関連サイト:大垣城 | 大垣市公式ホームページ/水の都おおがき

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歴史予習

歴代城主年表

1明応9(1500)竹腰尚綱築城?
天文4(1535)宮川安定築城?

前述の通り築城年代、築城者は特定されていませんが、
築城当初は牛屋城と呼ばれていたようです。

戦国時代は美濃と近江を結ぶ交通の要衝であった為、
斎藤道三と織田信秀が争奪戦を繰り広げました。

2天文13(1544)織田信辰(織田氏一門)
3天文18(1549)竹越尚光(斎藤氏傘下)
4永禄2(1559)氏家直元(卜全)永禄6年に大規模な拡張工事
5天正11(1583)氏家直昌秀吉方として賤ヶ岳の戦いに参陣
6天正11(1583)池田信輝(恒興)天正12年に小牧・長久手の戦いで戦死
7天正12(1584)池田輝政翌年岐阜城主となる
8天正13(1585)三好秀次(秀吉の甥)
9木下秀長(秀吉の弟)
10加藤光泰同年中に蟄居処分
11一柳直末(秀次家老)天正13年天正地震で全壊
小田原征伐で戦死
12天正18(1590)豊臣秀勝(秀次弟)
13伊藤祐盛(盛景)
14慶長4(1599)伊藤盛宗(盛正)関ヶ原の戦いで西軍につく

天正16年(1588)に一柳直末によって、
もしくは 慶長元年(1596)頃に、伊藤祐盛の改築で天守が築かれたとされています。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、伊藤盛宗が西軍に属し、
西軍、石田三成らが入城しました。

関ヶ原の戦い後は徳川家康の譜代大名として石川康通が入城します。
ちなみに康通は石川数正の従弟です。

15慶長6(1601)石川康通美濃大垣藩の初代藩主
16慶長12(1607)石川家成(康通の父)
17慶長14(1609)石川忠総(家成の養子)総堀りを造る
豊後日田藩に移封
18元和2(1616)松平忠良天守を改修
19寛永元年(1624)松平憲良同年に信濃小諸に移封
20岡部長盛
21寛永9(1632)岡部宣勝翌年播磨龍野藩へ移封
22寛永10(1633)松平定綱

『関ヶ原合戦図屏風』や『正保城絵図』によると、
現在の復元天守とは異なる3重の天守が描かれており、
松平忠良によって改修されたものと考えられています。

この後、寛永12年(1635)に戸田氏鉄が城主となると、
以後明治まで戸田家大垣藩の居城となりました。

戸田家大垣藩

23寛永12(1635)戸田氏鉄大垣城の整備
24慶安4(1651)戸田氏信
25寛文11(1671)戸田氏西延宝の大暇
26貞享元年(1684)戸田氏定支藩・大垣新田藩が立藩
27享保8(1723)戸田氏長
28享保20(1735)戸田氏英延享の永御暇
29明和5(1767)戸田氏教
30文化3(1806)戸田氏庸藩校・致道館(後の敬教堂)創設。
31天保12(1841)戸田氏正
32安政3(1856)戸田氏彬
33慶応元年(1865)戸田氏共鳥羽・伏見の戦いで新政府軍と戦う
大垣藩知事に任じられる

寛永12年(1635)、戸田家初代大垣藩主となる戸田氏鉄とだうじかねが美濃大垣へ移封されました。

氏鉄は新田開発や治水工事などに注力し、大垣藩の藩政を安定させていきました。
また教育にも力を注ぎ、『八道集』などを著しています。

また、大垣入封前に、尼崎藩主として尼崎城築城と共に行った治水事業の功績が称えられ、
兵庫県尼崎市と大阪市西淀川区佃の府県境を流れる左門殿川や左門橋として、その名を残しています。

戸田氏鉄像
戸田氏鉄像

寛文11年(1671)氏西うじあきが3代藩主となった頃には、
大垣藩の財政はかなり逼迫していた為、氏西はこれに対し改革を断行します。
その際に行われた176人にもおよぶ家臣団のリストラや経費節減などは延宝の大暇と呼ばれています。

しかしこれらの藩政改革の効果は薄く、大垣藩の藩財政はさらに悪化していきました。

さらに享保20年(1735)に6代藩主となった氏英うじひでも、
延享の永御暇と呼ばれる家臣ら177名のリストラをしています。

7代藩主・氏教は善政を行い、大垣中興の名主と評された他、
幕府老中として幕府財政改革に尽力したり、ロシア船来航の際には外交問題にも関わりました。

慶応元年(1865)、10代藩主・氏彬うじあきらの病死により、その末期養子として家督を継いだ氏共うじたかは、
慶応4年(1868)、鳥羽・伏見の戦いでは新政府と敵対しますが敗戦し、
朝敵として入洛禁止を命じられました。

しかし家臣らの説得によって新政府に謝罪し、
戊辰戦争では新政府軍に与して東山道軍の先鋒を務めました。

こうして許された氏共は、版籍奉還では大垣藩知事に任じられる事となります。
明治4年(1871)、廃藩置県により廃藩となると、大垣県を経て岐阜県に編入され、
華族令が公布されると、氏共は伯爵に叙せられました。

【関ヶ原の戦い】大垣城の戦いとおあむ物語

慶長5年(1600)に関ヶ原の戦いと呼ばれる一連の大戦がはじまると、
時の城主・伊藤盛宗は西軍に属したため、石田三成は大垣城を本陣にしようと考え、
盛宗に城の明け渡しを求めました。

盛宗はこれを一度は拒否しますが、結局美濃国の今村城(場所不明)に退去したとされています。

こうして大垣城は西軍の拠点となりましたが、
家康が大軍を率いて大垣城から約1里の距離にある赤坂に到着し、岡山に本陣を造営すると、
西軍の兵士たちは動揺し、逃亡する者も現れました。

三成の家老である島左近清興しまさこんきよおきは西軍の士気を高めるために奇襲作戦を敢行し、
西軍が勝利を収めました。(杭瀬川くいせがわの戦い)

その後、西軍本隊は関ヶ原に移動し、城内には三成の義弟・福原長堯ふくはらながたか熊谷直盛くまがいなおもり
豊後国富来城主・垣見一直かきみかずなおや木村由信・豊統とよむね父子、相良頼房、秋月種長、高橋元種もとたねなど、
九州の小大名を中心に7千5百の兵を守備に残しました。

一方、東軍の家康も、水野勝成を主将として、松平康長、西尾光教、
津軽為信ら約1万1千を大垣城の押さえとして残し、主力部隊は関ヶ原に進みました。

しかし、本戦ではご存じのように小早川氏の裏切りなどもあり、
1日で勝敗が決する事となります。

すると東軍水野勝成の元へ、大垣城から相良頼房、秋月種長、高橋元種の書状が届きます。
内容は家康への帰順を申し入れるもので、
その条件として大垣城の守将らを誅殺するというものでした。

相良氏ら三将は、軍議として他の諸将を集め、熊谷直盛、垣見家純、
木村勝正・豊統父子らを殺害し、東軍を大垣城に招き入れました。

残された福原長尭は必死に防戦しましたが、最終的には降伏勧告を受け入れて開城しました。

そしてこの時の逸話が『おあむ物語』です。

主人公の「おあむ」は、石田三成の家臣・山田去暦やまだきょれきの娘で、
おあむの一家はこの戦いの時、大垣城内にいました。

この物語によると、敵軍の石火矢が撃ち込まれる中、城内の女達は天守に集まって、
鉄砲の弾丸を鋳ったり、味方が討ち取ってきた生首の処理をし、
血の臭いが漂い生首の転がる中で寝起きしたといいます。

しかし落城が近づいた頃、大垣城中に東軍から矢文が届けられます。
かつて山田去暦は家康の手習いの師匠だった為、城の脱出を見逃してくれるという内容でした。

こうしておあむの一家は城を脱出したそうです。

この物語には、目の前でおあむの弟が射殺されたり、
闇に紛れて城から逃げる際には、
母親が急に産気づき、田んぼの水を産湯代わりに女の子を出産、
すぐに父親が母親を肩にかけて落ち延びるといった、
壮絶な戦国の戦の様子が伝えられています。

おあむは関ヶ原の戦い当時は16歳頃だったようですが、
老婆になった彼女はこの昔話を子供たちに聞かせ、
それを聞き手の誰かが書き留めたものが『おあむ物語』であるとされています。

ちなみにこの戦いで降伏し開城した福原長尭は伊勢国の朝熊山に蟄居しましたが、
三成の義弟ということで許されず、後に切腹を命じられています。

おあむ物語が読みたい方はコチラで検索してみてください。

国立公文書館 デジタルアーカイブ

大垣城 おあむの松
おあむの松
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見どころ

外観復元天守

大垣城 天守
天守

大垣城は廃城令により廃城となりましたが、
天守など一部の建物は破却を免れ、旧国宝に指定されました。

しかし昭和20年(1945)7月29日の空襲により天守や艮櫓などが焼失ししました。

現在の天守は昭和34年(1959)に、乾櫓は昭和42年(1967)に、
鉄筋コンクリート造で郡上八幡城を参考に外観復元されたものです。

郡上八幡城は戦前の大垣城をモデルに復元されたものでしたが、
大垣城が外観復元された際には観光用に窓を大きくするなどの改変がされています。

1・2階は関ヶ原合戦や大垣城などに関する展示がされ、4階は展望スぺースとなっています。

外観復元された天守は全国にわずか9城しかありません。
その他の復元天守についてはコチラ

丑寅櫓
丑寅櫓
大垣城 戌亥櫓
戌亥櫓

大垣城の西門
西門

大垣城には7の門(大手門、南口門、柳口門、竹橋口門、清水口門、辰之口門、小橋口門)があり、
七口之門と呼ばれていたそうです。

現存するのは・・・

柳口門・・・現在正門として使われている東門(当時は存在しない)に移築
清水口門・・・市内長松町の天理教本眞愛分教会に移築

大垣城 東門
大垣城 東門(柳口門)

いずれも当時の場所には残されていませんが、
大垣市内には、現在も七口之門の跡が残っており、
かつての大垣城下の規模を実感する事ができます。

ちなみに現在西門として使われている門は、
元々埋門があった所に昭和60年(1985)に造られた模擬門で、
東門も同様に大小姓多門櫓跡地に造られた模擬門です。

また、七口之門ではありませんが現存する門として、
岐阜県各務原市鵜沼西町1丁目に、大垣城の鉄門が移築されています。
これは本丸の鉄門と考えられており、現在城内には礎石しか残されていません。

移築前は、各務原市蘇原の安積氏が城門の払い下げにより購入し、
「安積門」と呼ばれていましたが、平成20年に各務原市へ寄付され、解体修理したところ、
土台に差し込まれた材木から「大垣藩大工奉行」「破損方奉行」「場所奉行」などの
墨書が発見されたそうです。
また、瓦には大垣藩戸田家の家紋が刻まれています。

他にも揖斐郡大野町大字西方の牧村家住宅の門(重文)や、
瑞穂市穂積の個人宅の門、大垣市青野町の個人宅の乾門も大垣城の門と考えられています。

石垣

化石

大垣城の石垣には金生山産の石灰岩が多く用いられており、
2億5千万年前の生物の化石などを見る事ができます。

東門石垣にはベレロフォン、天守にはウミユリの化石が見られる他、
フズリナ等の化石もあるそうです。

刻印

ogaki 石垣の刻印
刻印

東門では複数の刻印が確認できます。

前述の通りかつてはこの場所になかった門ですが、
天守再建に伴い再移築された際に石垣もかつて使われていた石材が運び込まれたと考えられています。

大洪水点

大垣城 石垣 洪水 水位
大洪水点

明治29年(1896)の大洪水では大垣城の石垣までもが浸水しました。

この時、金森吉次郎は大垣輪中堤防委員長として指揮をとり、大垣輪中内の4万の人命を救いました。
そしてその時の事を後世に伝える為、吉次郎は大垣城天守の石垣に当時の最高浸水ラインを刻みました。

城郭検定対策

城郭検定マーク
  • 関ヶ原の戦いの時に石田三成率いる西軍の拠点とした。
  • 廃城令では廃城となったが天守は残され旧国宝に指定されていた。
  • 太平洋戦争の空襲で焼失し復興されたが、古写真と比較し窓の位置や大きさ、懸魚の装飾が省略されるなどの改変があった為、平成23年に古写真に基づき改修工事が行われた。
  • 総構の城だった。

出題歴もそれなりにあるね!

周辺情報

郷土館

ogaki 資料館
郷土館

戸田氏の入城350年を記念し建設され、昭和60年10月9日に開館しました。
歴代大垣藩主戸田氏を中心に、郷土文化などを紹介しています。

大垣城と郷土館の入館券は共通です。

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