49.小谷城‐お市の方・浅井三姉妹ゆかりの城 浅井長政の最期とは?

小谷城本丸石垣 日本100名城
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写真 「近江を制するものは天下を制す」

浅井氏3代の居城として知られ、織田信長の妹・お市の方や浅井三姉妹ともゆかりのある城です。

小谷城の戦いでは浅井長政、父・久政共にこの地で自刃しています。

長政と信長といえば義兄弟の関係ですが、
一体なぜ長政は信長を裏切る事となったのでしょうか。

元亀争乱や小谷城の戦いの背景、見どころなどを簡単にまとめたのでご紹介していきます。

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小谷城概要

基本データ

写真 標高約495mの小谷山に築かれ、日本五大山城の一つに数えられます。

別名
別名の由来
所在地 滋賀県長浜市
城地種類 山城
縄張り形式 梯郭式
築城年代 1516年(?)、1525年頃
築城者 浅井亮政
主要城主 浅井氏、羽柴秀吉
文化財史跡区分 国指定史跡
天守の築城年代
天守の形式 二重天守(?)
天守の構造
現在の天守の状態
現存する建築物

利用案内

アクセスJR北陸本線「河毛駅」徒歩25分で登山口
開城時間
入城料金
100名城スタンプ設置場所 小谷城戦国歴史資料館
スタンプ設置場所の開館時間 9:00~17:00(最終入館時間 16:30)
主な関連施設 小谷城戦国歴史資料館

関連サイト:小谷城戦国歴史資料館

熊などの獣に注意してください。

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歴史予習

小谷城の戦い

浅井氏は、北近江の守護大名・京極氏の被官で、小谷城西麓の丁野ようのを本拠としていましたが、
大永3年(1523)、浅井亮政あざいすけまさらが京極氏の後継者争いに乗じて国人一揆を起こしたのをきっかけに、
主導権を握り北近江を支配するようになります。

以降浅井家3代にわたり小谷城城主を務めていました。

後に亮政の孫で3代目城主の浅井長政は、織田信長の妹・お市の方を娶り、
その間には浅井3姉妹として知られる茶々・初・江の3人の娘が誕生する事になります。
長政とお市の方の仲は良好だったようです。

そしてこれにより信長は近江の防衛、中山道・東海道の確保を達成します。

戦国あるある、政略結婚だったんだね。

その頃の信長といえば、伊勢平定に続き、美濃も制圧し、
さらに将軍・足利義昭のお墨付きを得て、
順調に天下統一へと突き進んでいるところでした。

そしてその信長からの上洛要請に、越前の朝倉義景は応じず、
ついに信長は武力制圧を開始する事となります。

これにより元亀騒乱と呼ばれる争乱が巻き起こる事となりました。

永禄13年(1570)、信長は越前への侵攻をはじめると、
天筒山城、続いて金ヶ崎城を落とします。
そしてそのまま朝倉氏の本拠である一乗谷城へ向かう予定でしたが、
そこで義弟・長政の裏切りによって挟撃される事となります。

撤退を決めた信長でしたが明智光秀や木下秀吉を殿しんがりに、
悪路の朽木谷を越えて、さらに家臣らの協力もあり、
命からがら京へ戻ることができました。

この戦いは、金ケ崎の退き口かながさきののきくち、金ケ崎崩れ、などと呼ばれ、
戦国史上でも非常に有名な撤退戦として知られています。

そしてこの事が信長の怒りを買い、姉川の戦いへと発展する事になります。

金ケ崎の退き口から2ヵ月後、ついに織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍が対峙する事となり、
その結果、浅井朝倉軍は敗走、両軍共に多数の死傷者を出す激戦となりました。

この戦いでの死傷者は数千にも及び、姉川の水は兵士たちの血で真っ赤に染まったと言われます。

その後の志賀の陣では優勢となり一進一退の攻防を繰り返しましたが
刀根坂の戦いの戦いで朝倉氏が滅ぼされ同盟相手を失い、
さらに、小谷城の側にある山本山城の城主・阿閉貞征あつじさだまさの寝返りもあり、
小谷城は孤立、長政は追いつめられていきました。

それでも長政は信長からの降伏勧告を拒絶し、最後の抗戦を試みますが
わずかな兵ではもはや抗戦もできず、嫡男・万福丸を城外に逃し、
お市の方と娘たちを織田軍に引き渡すと自害して、浅井家は滅亡する事となりました。

その後信長は浅井家を断絶するために万福丸を捜索させ、磔にして処刑しました。

そして小谷城は羽柴秀吉が拝領する事となりますが、
長浜城を築いて移転した為廃城となりました。

お市の方と3人の娘は信長の妹とその娘であったため処刑されず、
3姉妹はそれぞれ豊臣、京極、徳川へと嫁ぐ事となり、
長政の血統は、権力者たちの一族に受け継がれることになりました。

なぜ長政は織田信長を裏切ったのか

前述の通り元亀騒乱を経て浅井家は織田信長によって滅ぼされる事となりますが、
なぜ義兄弟でもある信長を長政は裏切る事となったのか。
長政が信長を裏切ったと言われる金ケ崎の退き口までの経緯をまずは簡単に見ていきます。

①浅井家と朝倉家の繋がり

浅井家は北近江の守護大名・京極氏の被官で一国人から、
北近江の支配者として名乗りをあげた浅井亮政に始まります。
亮政は長政の祖父です。

初期の頃は他勢力に敗れることも多く、越前の朝倉氏の援助によって家を保っていた、
という経緯があり、代が替わっても関係を重視していました。

②織田家との同盟

①のような背景があり、織田信長との同盟を結ぶ際にも、
朝倉氏と仲が悪い信長と同盟を結んで、いずれ朝倉氏と敵対するのは避けたい、
と考える家臣たちが多くいました。

その為長政は同盟締結の唯一の条件として、
織田氏と朝倉氏の不戦条約を結ぶ事としました。

③将軍・足利義昭による織田信長討伐計画

ところがその後、将軍・足利義昭が、勢いを増す織田信長を疎ましく思い、
各地の大名らに密書を送り、密かに信長討伐を計画するようになると、
それが信長の知るところとなります。

すると信長は、上洛要請に従わない朝倉氏はいずれ将軍側につき敵対するものと考え、
浅井氏との約束を破って朝倉氏を武力で制圧する事に決めます。

そして信長は朝倉氏の支城・金ヶ崎城を落とし、
一乗谷の攻略へと乗り出す頃、長政が朝倉家と協力して信長を挟み撃ちにしようと動きだし、
これが金ケ崎の退き口と呼ばれる撤退戦へと繋がります。

つまり先に裏切ったのは織田信長なんだね。

通説によると、
この信長による朝倉攻めによって織田家と朝倉家との板挟みになった長政は、
父・久政の強い勧めもあり朝倉方につくこととなったそうです。

父・久政と長政の関係といえば、長政が父を追放した過去があります。

長政の祖父・亮政が北近江の支配者へと成りあがった頃には、
朝倉家の援助を受けて家を保っていた事は先に紹介しました。
ところがその後、父・久政の代では南近江の六角義賢ろっかくよしかたに敗戦し、
浅井長政が生まれる頃には、六角氏に従属するようになっていました。

久政は武勇には冴えず、長政が元服すると、六角氏からの圧力もあったのか、
六角義賢から「賢」の字をとり、浅井賢政あざいたかまさと名乗らせ、
さらに六角氏の家臣の娘との婚姻を結ぶなど、徹底的に従属していました。

六角氏の家臣の娘と婚姻すれば、長政も六角氏の家臣と同等となってしまいます。
そんな六角氏に従属し続ける久政に家臣らは次第に不満を募らせ、
とうとう長政に世代交代するべくクーデターを起こすのでした。

もちろんこれは六角氏に対するクーデターでもあるので、
永禄3年(1560)、野良田の戦いで長政と六角氏が衝突する事となります。

長政の兵に対して倍以上の兵を擁した六角軍でしたが、
長政は武勇に優れ、見事六角氏を破りました。
その戦いぶりは家臣すら心酔したほどだったといいます。

その後長政は、父・久政を竹生島ちくぶしまへと追放し隠居させ、家督を相続しました。

久政は隠居後も、ある程度の影響力や発言力を維持しており、
さらに朝倉氏との友好関係に固執し、織田との同盟には反対していたとも言われていますが、
浅井家の運命を左右する決定にそこまでの影響力を持てたのかはわかりません。

ですが元々信長との同盟に反対していた家臣は多かったですし、
そこで無理に長政が織田家との同盟関係を継続すれば家臣らの信頼を失う事になりかねませんから、
父・久政や家臣らの説得により、結局長政は朝倉家との関係を重んじ、
織田の軍を攻撃した、という事なのでしょう。

次に長政はどのように考えていたのか

野良田の戦いで長政が六角氏に勝利したのは永禄3年(1560)ですが、
丁度その頃信長も桶狭間の戦いで勝利を収めていました。

こうして同時期に台頭してきた戦国大名であった2人は、
織田信長の提案により同盟を締結する事となりました。

信長は美濃の斎藤氏の攻略に手を焼いていた事や、
中山道・東海道の安全確保が必要だった事もあり、
一方長政からしても六角氏に一度は勝利したものの、完全に打ち破れてはいない状況でしたので、
両者にとってこの同盟は魅力的なものでした。

浅井家内では、朝倉氏と織田氏が不仲である事を踏まえて反対する家臣もいましたが、
長政は反対を押し切り、朝倉家との不戦条約を条件に、この同盟は締結されたのです。

同盟の際にお市の方と婚姻関係を結ぶ事となりますが、
2人の仲は良好で4人の子供をもうけました。

長政は六角氏から離反した際に賢政から新九郎へと改名していましたが、
一説によると織田信長から「長」の字をもらって長政に改名したとも言われています。
また信長も、戦国一の美女と言われた妹・お市の方を嫁がせるなど、
かなり力を入れていたと考えて良いと思います。

しかし信長といえば、対等な同盟関係を結んでいたはずの徳川家康を、
家臣のように扱うようになっています。両氏の同盟というのは清州同盟の事です。

『信長公記』によると、信長は天正3年(1575)の長篠の戦いで、
家康に国衆の一人として先陣を命じたといいます。
さらに天正10年(1582)の武田氏討伐においても、
家康は駿河口の大将を務め、結果として駿河国を与えられています。

信長の命によって出陣し、領地を拝領している事から、
主従関係があった事がわかります。

もし長政がこのような事態を危惧したとしたら、
家臣や父・久政の説得以外にも織田氏に敵対する理由になったかもしれません。

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見どころ

連郭式の曲輪

画像準備中

登城口からまず出丸跡、金吾丸跡、番所跡、御茶屋跡、御馬屋跡、馬洗池跡、桜馬場跡、黒金門跡、大広間跡、本丸跡、中ノ丸跡、刀洗池跡、京極丸跡、小丸跡と続き、頂上に山王丸跡があります。

小谷城は標高495mの小谷山中腹に築かれた山城ですが、
小谷山山頂の大獄おおずく(城)は小谷城の支城的な役割のものだったと考えられます。
浅井亮政の築城当初は、小谷城はこの大嶽にあったとの説もあるようです。
また大嶽は小谷城の戦いで援軍を出した朝倉方が陣を敷いた砦跡でもあります。

桜馬場跡は大河ドラマ「江」のロケ地にもなっていて、
琵琶湖や小谷城攻めで信長が陣を敷いた虎御前山が一望できます。
建物跡と思われる礎石もはっきりと確認できます。

付近にある首据石は、家臣が敵方の六角氏に内通していることを知った浅井亮政が、
その首を取り晒したと伝わっています。

さらにその近くの脇道から赤尾屋敷跡へ行く事ができます。
これは小谷落城時に長政が自刃したと伝わる重臣・赤尾清綱の屋敷跡です。

さらに本丸方面に進み黒金門跡を抜けると、大広間・本丸跡があります。
往時は重要な屋敷群や、天守が建っていました。

彦根城西の丸の三重櫓はここにあった小谷城天守を移築したものとも伝わっています。

京極丸は、浅井亮政が当初仕えていた京極氏を、
浅井氏の台頭後に迎え入れた屋敷跡と言われています。

小谷城の戦いでは秀吉によって、久政の守っていた京極丸が落とされると、
長政のいる本丸と小丸は連携を断たれ、落城することになりました。
この京極丸には清水谷から、水の手と言われる急峻な登城道を登って直接到達することができ、
秀吉はこの道を通って京極丸を攻め落としたと言われています。

清水谷には代々の浅井家重臣の屋敷があったとされています。
清水谷にも石垣などが残されている他、
蛙岩と呼ばれる巨岩、丸子岩、堅堀跡などの見どころがあります。

最高所の山王丸は、山王権現を祀る神社があったことから山王丸と呼ばれるようになったそうです。
標高約400mのところにあり、小谷城の詰の丸となっていました。

石垣

画像準備中

天守台の石垣や、中丸などにも石垣は残されていますが、
山王丸跡の東側の斜面には大石垣と呼ばれる石垣が残されています。

高さ5m程あり、小谷城で最大規模の石垣です。

城郭検定対策

城郭検定マーク
  • 浅井氏3代の城だった。
  • 最高所にある曲輪は山王丸
  • 小谷城の戦いでは、長政は赤尾屋敷で、父・久政は京極丸を落とされた後追い詰められて小丸で自害した。
  • 戦後織田信長から羽柴秀吉に対して論功行賞として小谷城が与えられた。

長浜城の築城と移行によって廃城となったよ!

周辺情報

小谷城周辺の史跡巡りに関連する記事はコチラ↓

虎御前山砦群

織田信長の小谷城攻略の際に築かれた前線砦群です。
虎御前山の尾根上に古墳が点在している利点を活かし、ほぼ山全体に砦を築き家臣を配置しました。
最高所にある伝織田信長陣をはじめ、滝川一益・柴田勝家などのものと伝わる陣跡が残っています。

所在地:滋賀県長浜市中野町(地図
アクセス:JR北陸本線・虎姫駅 徒歩約15分(矢合神社に登城口)
     北陸自動車道・長浜ICから15分(駐車場有)
御城印購入場所:虎姫時遊舘地図

小谷城戦国歴史資料館

浅井氏3代、お市の方やゆかりの人物の肖像画、小谷城の出土品などが紹介されています。
日本100名城スタンプ設置場所、御城印販売所でもあります。

所在地:滋賀県長浜市湖北町伊部(地図
アクセス:JR北陸本線 ・河毛駅 徒歩 40分
     北陸自動車道・長浜ICから15分
     小谷城スマートICから5分
HP:小谷城戦国歴史資料館地図

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