158.福知山城-明智光秀の丹波攻略~本能寺の変 見どころやアクセスまとめ!

福知山城 天守 続日本100名城
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写真 明智光秀が築いた城

福知山地方の国人・塩見頼勝が、掻上城を築城したのが始まりと言われ、
塩見頼勝は後に姓を横山に改め、その息子・信房が城主の頃に城名も横山城となりました。

後に織田信長に丹羽国征伐を命じられた明智光秀によって一帯が平定されると、
福知山城と改名し、さらに光秀の縄張りの元、近世城郭へと修築されました。

しかしわずかその3年後には本能寺の変を経て山崎の戦いで光秀は敗れたのでした。

江戸時代になると、関ヶ原の戦いの論功行賞により有馬豊氏が入城し、
現在のような城郭や城下町が整備され、福知山藩の藩庁となりました。

寛文9年(1669)、土浦城の朽木稙昌が入城して以降は、
約200年に渡り朽木氏13代によって統治されました。

廃藩置県では廃城となりましたが、後に「瓦一枚運動」などの
寄附活動によって5億円以上の寄付金を集め、天守が外観復元されました。

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福知山城概要

基本データ

写真 外観復元天守の一つです。

別名
別名の由来
所在地 京都府福知山市
城地種類 平山城
縄張り形式 連郭式
築城年代 1579年頃
築城者 明智光秀
主要城主 明智氏、有馬氏、岡部氏、稲葉氏、松平(深溝)氏、朽木氏
文化財史跡区分 市指定史跡
天守の築城年代 1699年、1985年(外観復元)
天守の形式 望楼型
天守の構造 複合・連結式
現在の天守の状態 外観復元
現存する建築物

利用案内

アクセスJR、京都丹後鉄道「福知山駅」より徒歩15分
有料駐車場あり
開城時間 9:00~17:00(入館は16:30まで)
入城料金 大人330円 子供110円
100名城スタンプ設置場所 天守閣入口受付、福知山観光案内所(JR福知山駅北口)
スタンプ設置場所の開館時間 観光案内所 9:00~18:00
主な関連施設
御城印販売場所 福知山城天守チケット売り場

関連サイト:【公式】福知山城 明智光秀が築いた城

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歴史予習

明智光秀の生涯

明智光秀の出自や青年期には不明な点が多くはっきりとはわかっていません。
光秀の父・明智光綱あけちみつつなは明智城主で、斎藤道三に仕えていましたが、
光秀誕生時点では文献などに登場するほどの家柄ではなかったようです。

弘治2年(1556)斎藤道三と斎藤義龍さいとうよしたつの内紛により明智城が陥落すると、
光秀は国を追われ、2年ほど流浪の身となります。
この間に室町幕府将軍・足利義輝に仕えたとも言われています。
そして永禄の政変の後主君を失った光秀は越前の朝倉義景に仕える事となりました。
長崎称念寺の門前に居住し、この頃に医学の知識を身に付けたとも言われています。

光秀は10年ほど朝倉氏に仕えましたが、その間に足利義輝の弟・義昭が将軍に名乗りを挙げます。
義昭は上洛の為に後ろ盾を得ようと周辺の有力武将を頼り、
その中で朝倉義景にも接近するようになりました。

そして義昭に命じられ、織田信長のもとへ協力を要請しに行ったのが光秀で、
それがきっかけとなって朝倉家臣でありながら義昭や信長の家臣も兼任するようになったと考えられています。

義昭は、信長らの協力のもと、無事に上洛を果たしました。
さらに本圀寺の変後には事実上の京都奉行の職務を行うようになり、
元亀争乱の際には、浅井長政の裏切りによって信長が危機に陥ると、
金ヶ崎の退き口と呼ばれる撤退戦で、豊臣秀吉と共に殿しんがりを務めました。

これは義昭が信長討伐の計画を密かに企て諸大名に協力を要請していた事により、
浅井氏と朝倉氏に挟撃される絶体絶命の危機でしたが、
その中で殿を務めたという働きが評価されて、宇佐山城を任されることとなります。

元亀争乱についてはコチラの記事でも少し紹介しました↓

その後、比叡山延暦寺焼き討ちでの活躍も評価され、
近江国滋賀郡約50,000石を与えられて坂本城を築城し、正式に信長の家臣になったと言われています。

出自も定かではないほど低い身分であったと思われる光秀ですが、
数々の戦に参戦し、信長の重臣として名をあげていきました。
丹波の攻略については次で紹介していきます。

高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆殲滅戦、天王寺の戦い、有岡の戦い等に参戦し、
信長の元で順調に出世していると思われた光秀でしたが、
天正10年(1582)、本能寺の変を起こします。
そして信長と信長の嫡男・信忠を討ったのでした。

ところがその後すぐに豊臣秀吉ら織田家臣によって天王山の戦い(山崎の戦い)で敗れ、
光秀の天下はあっという間に終わりを迎え、三日天下と呼ばれる所以となりました。

織田信長の丹波国征伐

天正3年(1575)、信長の命により明智光秀は丹波の攻略に着手しました。

信長は、本拠である岐阜から、西の毛利氏を攻める為には、
その間の丹波の平定が重要と考えました。
さらに、もともと丹波は足利義昭方の国人の多かった地で、
義昭を追放した信長にとっては、義昭派の者の排除もしておきたかったはずです。

丹波攻略を命じられた光秀はまず、
第一次黒井城の戦いによって赤井直正(荻野直正)と衝突します。
直正、通称・悪右衛門は丹波の赤鬼と呼ばれる猛将で、
光秀の丹波攻略において、最も光秀を苦戦させた人物です。

光秀は黒井城を落城寸前まで追い込みますが、
突然共闘していた八上城の波多野秀治はたのひではるが謀反を起こした事であえなく敗走します。

実は赤井直正と波多野秀治は元々通じていたとされ、
これは赤井の呼び込み戦法と呼ばれています。

こうして思うように丹波の攻略が進まないまま、
光秀は一度坂本城に戻り、いくつかの戦いに参陣した後、
再び天正5年(1577)に二度目の丹波攻めにとりかかります。

次は亀山城と八木城、続いて籾井城、船坂城、籾井城、
というように、南側、近江に近い東側から徐々に城を落としていきました。
もちろん途中で赤井直正の奇襲にあったり、一筋縄ではいきません。

しかし天正6年(1578)に赤井直正が病死し、赤井氏が力を失っていくと、
ついに翌天正7年(1579)、黒井城を落として勝利し、丹波を平定しました。

実に丹波攻略には5年もの期間を要しましたが、
もし赤井直正が生きていればもっとかかったのかもしれません。

この平定を信長は大いに喜び、
光秀は丹波一国29万石が与えられ、近江の領地と合わせておよそ35万石ほどの大名となりました。

光秀は亀山城を奪取して以降は、この城を丹波攻略の拠点としていますが、
丹波平定後には福知山城を築城し、娘婿・明智秀満を城主としました。

明智光秀の人物像

織田信長を討った謀叛人のイメージが強い明智光秀ですが、
一体どんな人物だったのでしょうか。

光秀といえば、連歌・詩歌・茶の湯などを嗜むような、教養の高い人物でもありました。
そうした文化や伝統を重んじるイメージによって、
争いを好まない人物像を想像する人もいるかもしれません。

また、愛妻家としても有名です。
妻・煕子ひろことは、まだ光秀が無名だった頃に出会い、
当時には珍しく恋愛関係によって結婚の約束をしています。

ところが、煕子は結婚前に疱瘡を患い、顔に傷跡が残ってしまいました。
どうしても明智家との縁談をすすめたかった煕子の父は、
婚約が破談になるのを恐れ、代わりに容姿の似ていた妹を光秀に送りました。
しかし光秀は容姿よりも心の在り様が大切だと言い、
当初の約束通り煕子を妻に迎えました。

煕子が髪を売ってまでお金の工面をしたという逸話も残されており、
2人はとても仲睦まじい夫婦だったようです。

第三者からの評価

まず主君・織田信長はというと、
①金ヶ崎の退き口で討ち死にした重臣・森長成の代わりに宇佐山城主に光秀を指名
②比叡山延暦寺焼き討ちの後には坂本城主として志賀郡を与え、
 信長家臣の中で、初の「一国一城の主」とした。
③『信長公記』では、光秀の丹波平定を絶讃し、それに次いで羽柴秀吉、さらに柴田勝家の名前があげられている。
これらの事から信長が光秀を高く評価していた事がわかります。
そして譜代の家臣ではないながら、35万石の領地を与えられるほどになっています。

次に、信長とも親交のあった宣教師のルイス・フロイスは、著書『日本史』の中で、
光秀の人間性を残酷で独裁的としながらも、
抜け目がなく、策略と計略の達人であったと記しています。

このような人物だったからこそ着実に信長の命令を遂行し、
重用されるようになったのかもしれません。

統治者としての光秀

天正7年(1579)に丹波を平定してから、
本能寺の変まで、光秀による統治はわずか3年ほどでしたが、
治水工事を行ったり、税金を免除するなど、善政を行いました。

その為光秀を奉る神社が建てられるなど、
領民からとても慕われた名君であったといわれています。

さらに家臣統治も画期的で、
「明智光秀家中軍法」によって軍役の賦課基準を定めました。

賦課基準を定めるという考え方は、さらに後の時代に広まるものです。

例えば豊臣秀吉が実施した太閤検地の際には度量衡を統一しましたが、
それまでは測る道具や人物によってばらつきがありました。
しかしこの明智光秀家中軍法には「京都法度之器物で三斗」と明記されています。

さらにこの知行高に応じた軍役賦課を実施するためには、
家臣らの知行高を正確に把握する必要もありました。

こうした条件をクリアした上でこの軍法が運用され、
適切な軍役を科すことで、家臣や農民らは消耗しすぎる事がありませんでした。

裏切者の明智光秀の印象とは全然違うね!

なぜ本能寺の変は起こったのか

信長から重用されてきた光秀が謀反を起こした理由は非常に多くの説がありますが、
中でも有力と言われる説は、

  • 信長への怨恨
  • 信長の非道を阻止するため

他には、何者かによる陰謀説天下統一の野望説幕府再興説四国説も有名です。

特に怨恨説には、根拠として挙げられる事件がいくつもあります。
代表的なものとしては、波多野氏に光秀の母を人質として出している中で信長が波多野氏を殺害した事により、光秀の母もまた波多野氏の家臣によって殺されてしまった丹波八上城事件が有名です。

しかし、先に紹介した「明智光秀家中軍法」には、
落ちぶれた境遇の自分を取り立ててくれた信長に対する感謝が記されています。

そんな自分が莫大な人数を預けられたからには精一杯奉公しなければならない、
また一族、家臣は子孫に至るまで織田家への奉公を忘れてはならない、
といった内容で、この軍法を定めた翌年に謀反を起こすとは想像もできません。

次に非道を阻止するため説は、
比叡山延暦寺の焼き討ちをはじめ信長の目に余る非道なやり方に耐えかねた、というものです。
これまで、比叡山延暦寺の焼き討ちは、教養人で争いを好まない光秀が信長を諫めようとしたという見方が一般的でした。

ところが光秀が和田氏へ宛てた書状によれば「仰木の事は撫で斬りにするべし」と記されており、
信長よりむしろ光秀の方が積極的であった可能性も指摘されるようになりました。
他には、山鹿素行やまがそこうの著書『武家事紀』によると、光秀が本能寺の変の翌日に書いた書状に、
「信長父子の悪虐は天下の妨げ、討ち果たし候」と記したとされている事も根拠とされています。

陰謀説は主に朝廷が黒幕とする説です。
光秀は京都奉行を務めた事もある為、朝廷との繋がりがあった可能性は考えられ、
完全に否定する事はできませんが、
怨恨説同様に、忠誠を誓った主君を裏切る理由となるかは謎です。
他にも足利義昭黒幕説、羽柴秀吉黒幕説などもあります。

そして近年新たな資料が発見された事によって、注目されるようになったのが、
四国説と幕府再興説です。

四国説は、2014年に「石谷家文書いしがやけもんじょ」の再調査によって、長宗我部元親から、
光秀の重臣・斎藤利三宛ての書状などが複数発見された事で注目されました。

当初、信長は四国制覇を目指す長宗我部元親に友好的で、元親の四国統一を認めていました。
ところが天正8年(1580)に本願寺と講和すると、信長は土佐と阿波半国の領有しか認めないとし、
これにより長宗我氏と信長は決裂しました。

信長の意向を拒絶した元親を説得するために、
斎藤利三が石谷光政へ宛てて書いた書状が、
「空然宛 斎藤利三書状」で、天正10年(1582)1月に書かれています。

少し複雑ですが、とにかく斎藤氏と長宗我部氏は親戚関係にありました。

斎藤利三…明智光秀の重臣
石谷頼辰…斎藤利三の兄、石谷光政の婿養子(光政の長女と結婚)
石谷光政…出家後は空然と名乗る
長宗我部元親…正室は石谷光政の次女
長宗我部信親…元親の長男、正室は石谷頼辰の娘

そしてその4か月後に、元親は信長に恭順する意向を示した書状を送ります。
それが「斎藤利三宛 長宗我部元親書状」です。

ところが信長は元親の恭順の態度を無視して四国侵攻を開始します。
そしてこれを止める為に本能寺の変を起こした、というのが四国説になります。

続いて2017年には、「土橋重治宛光秀書状つちばししげはるあてみつひえでしょじょう」の原本が発見されています。
これにより幕府再興説が議論される事となりました。

土橋重治宛光秀書状は、天正10年(1582)6月12日、
本能寺の変が起きた10日後に光秀が土橋重治つちばししげはるに宛てて書いた書状です。
土橋重治は反織田信長派の紀伊の武将で、雑賀衆のリーダー的な存在の人物です。

これによると、雑賀衆が光秀の味方となった事、
味方をしてくれる者には恩賞を与え、友好関係を築くつもりがある事、味方の情勢などが記され、
さらに、「詳細は将軍(義昭)からご命じになられるので、(私からは)申し上げられない」
と締めくくられています。

もともと幕府再興説では、光秀自ら幕府を開く、もしくは足利氏による幕府再興の2つの説がありましたが、
それがこの書状の発見により、
陰謀説の足利義昭黒幕説とも合わせて議論されるようになりました。

まとめ

本能寺の変はなぜ起こったか、その説の一部をご紹介しました。

いずれの説にしても、
明智光秀家中軍法を定めてから本能寺の変に至るまでの1年の間に一体何があったのかは今となっては知る由もなく、
日本の歴史上でも非常に謎の多い大事件には変わりありません。

いつかもしかしたら決定的な史料が見つかるかもしれないね!!

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見どころ

外観復元天守

画像準備中

明治6年(1873)の廃城令により石垣と銅門番所あかがねもんばんしょ以外はすべて解体され、
城門は観瀧寺、正眼寺、法鷲寺、明覚寺の山門として移築されています。

現在の天守は「瓦一枚運動」などの寄付活動によって、
昭和61年(1986)に外観復元されたものになります。
その高さは鯱までいれると約20mもあります。

外観復元された天守は全国にわずか9城しかありません。
その他の復元天守についてはコチラ

石垣

画像準備中

天守石垣の野面積みの中には五輪塔や墓石、宝篋印塔ほうきょういんとう、石臼などの転用石がいくつも見られます。

銅門番所の横に転用石が展示されていますが、
転用石は石垣中に181個、天守台内部から321個が出土しており、合計502個にも及びます。

付け櫓の石垣中央のあたりには隅部であったと思われるラインがはっきりと確認できます。
発掘調査により、天守台の反対側まで伸びていることが判明しており、
光秀時代以降に増築された痕跡だと考えられます。

銅門番所

画像準備中

現存移築されている建物で、二の丸の登城路付近にあった銅門脇にあった番所を、
大正5年(1916)に天守台に移築され、さらに昭和60年(1985)に天守小天守が復元されたため、
再度本丸に移築されました。

城郭検定対策

城郭検定マーク
  • 城内の豊磐とよいわの井戸は直径2.5m、深さは50mほどで、日本城郭でも有数の深さを誇り、現在も枯れていない。
  • 廃城令では銅門番所以外はすべて解体された。
  • 明智光秀の縄張りで、光秀が築城した城の中で、現在唯一天守がある城。
  • 光秀時代の石垣が残っている。
  • 有馬氏入城後に現在のような城郭や城下町が整備された。
  • 明治維新まで朽木氏が13代にわたり城主を務めた。
  • 福知山藩の藩庁

周辺情報

御霊神社

画像準備中

明智光秀を祀った神社で、光秀の死後、福知山では天災が相次いだ為、
冤罪で非業の死を遂げた光秀の霊魂の祟りとして合祀されることになったそうです。

アクセス:京都府福知山市西中ノ町238(地図
JR「福知山駅」より徒歩10分 駐車場有
関連サイト:京都府神社庁

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