城郭検定対策の為の外国人【前編】‐戦国期の宣教師とキリシタン大名

フランシスコザビエル肖像 城郭検定対策関連
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宣教師と言えばまず思い浮かぶのがフランシスコ・ザビエルですが、
実は他にも多くの宣教師が日本に来訪し布教活動をしてきました。

そうした宣教師の活動によって数々のキリシタン大名が誕生し、
民間にも多く布教されました。

ところが秀吉のバテレン追放令によってキリスト教は禁止され、
その時代には一度宣教師の処刑も行われています。

その後、本格的にキリスト教を禁止したのは徳川家康で、
慶長17年(1612)に江戸幕府による正式な禁教令が出されました。

今回は禁教令以前の日本で布教活動をした宣教師を紹介します。
ただし城郭検定対策を目的としている為、
宣教師以外の外国人についての紹介も含む他、
諸大名との関係、城下町の形成や関連する歴史的出来事の注目度が低い人物については省略しています。

関連する過去問も交えつつまとめ、
本記事最後にもいくつかピックアップしましたので挑戦してください♪

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宣教師・外国人一覧

最も有名な宣教師:フランシスコ・ザビエル

まずは日本に最初に来日したイエズス会宣教師のフランシスコ・ザビエルです。

天文18年(1549)鹿児島に上陸

1540年~1560年頃と言えば第一次月山富田城の戦いや第一次川中島の戦い
厳島の合戦、桶狭間の戦いなどが勃発したまさに戦国時代でした。

そんな中ザビエルは、コスメ・デ・トーレス神父、
フアン(ジョアン)・フェルナンデス修道士らとともに鹿児島に上陸しました。

当初は伊集院城(一宇治城)で薩摩の守護大名・島津貴久から宣教の許可を得て宣教活動をしていましたが貴久が禁教に傾くと京を目指して薩摩を去りました。
薩摩を発ったザビエルは続いて肥前国平戸に入り、宣教活動を行いました。
平戸を出立すると、続いて周防国山口に立ち寄り無許可で宣教活動を行いました。
周防の守護大名・大内義隆にも謁見していますが、
男色を罪とするキリスト教の教えが義隆の怒りを買い、すぐに周防を発つことになります。
岩国からは海路に切り替え、堺の豪商・日比屋了珪ひびやりょうけいの協力もあり、
天文20年(1551)京に到着すると了珪の紹介で小西隆佐こにしりゅうさの歓待を受けました。

京では宣教許可を得る為に後奈良天皇と征夷大将軍・足利義輝への拝謁を請願しますが、
その目的は叶わず
、諦めたザビエルは平戸に戻ります。

ザビエルは、平戸に置き残していた献上品を携え、再び山口に入ると大内義隆に再謁見します。

この献上品は、天皇に捧呈しようと用意していたインド総督とゴア司教の親書の他、
望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、小銃などで、
ザビエルが初めて日本に眼鏡を持ち込んだと言われています。

これらの品々に喜んだ義隆はザビエルに宣教を許可し、
大道寺をザビエル一行の住居兼教会として与え、
これが日本最初の常設の教会堂となりました。

また、山口での宣教中に出会った盲目の琵琶法師は後に、宣教師ロレンソ了斎となりました。

その後ザビエルは、豊後国府内にポルトガル船が来着したとの話を聞きつけ、
山口での宣教をトーレスに託し、自らは豊後へ向かい、
豊後では守護大名・大友義鎮よししげ(宗麟)に迎えられ、その保護を受けて宣教を行いました。

ザビエルは「日本人は親しみやすく名誉を重んじる」と、日本人を高く評価していたようで、
イエズス会本部にさらなる宣教師の派遣を依頼しており、
後にガスパル・ヴィレラ、ルイス・デ・アルメイダ、ルイス・フロイス、ガスパール・コエリョなどが来日する事となりました。

ザビエルの意思を継いだコスメ・デ・トーレス

ザビエルと共に来日したトーレスでしたが、
ザビエルが日本を去った後も日本に残り宣教活動を続けています。

トーレスやザビエルの宣教活動は一般に「適応主義」と呼ばれており、
日本ではヨーロッパ人の宣教師たちも日本文化を尊重し、日本式の暮らしを行うものでした。

山口、豊後、肥前などを転々としながら、宣教師教育や信徒の世話をし、
こうしたトーレスの地道な宣教活動によって山口や九州の各地で徐々にキリスト教が広まりました。

永禄6(1563)には大村純忠に洗礼を授けて、初のキリシタン大名とし
南蛮貿易の拠点として横瀬浦や長崎の開港にも尽力しました。

日本地区の布教責任者として、各地を転々として疲れ果てたトーレスは、
1560年代の終わりに新しい布教長の派遣を依頼し、これによりフランシスコ・カブラル神父が派遣されてきます。

京に初めて協会を建てたガスパル・ヴィレラ

ポルトガル人イエズス会宣教師のガスパル・ヴィレラはザビエルによる宣教師派遣要請を受けて
弘治2年(1556)ヌーネス・バレトとともに九州豊後に上陸しました。

後に将軍・足利義輝に謁見し、キリスト教宣教の許可を得て都で初めての教会を建てました。

日本初の病院創設者:ルイス・デ・アルメイダ

元は商人で、天文21年(1552)に貿易目的で肥前国の平戸に初来日をしました。

山口でイエズス会宣教師コスメ・デ・トーレス神父に出会い、
彼らの影響を受け豊後府内にとどまり、私財を投じて乳児院を建てました。

さらに豊後府内の領主であった大友宗麟から土地をもらい受けると、
外科、内科、ハンセン氏病科を備えた、日本初の総合病院を建て、西洋医学が初めて導入されました。

日本人医師の協力を受けて病院を運営していたアルメイダは医学教育も開始し、医師の養成を行いました。
やがて九州全域をまわって医療活動を行うようになり、
肥前国江川城主・宇久純定うくすみさだの治療を依頼されるほどでした。

アルメイダは天草でも布教を開始し、南蛮文化を伝えており、
天草市の殉教公園には彼の像が建てられています。

また、大分においてミゼリコルディアといわれるキリスト教徒の互助組織を発足させました。

日本史の著者:ルイス・フロイス

ポルトガル人のイエズス会宣教師で、ザビエルの要請を受けて派遣された宣教師の一人です。

永禄6年(1563)、横瀬浦に上陸し、大村純忠のもと、日本での布教活動を始めました。

その後、アルメイダにより上洛の指示を受けると、
京都に入り、ガスパル・ヴィレラやロレンソ了斎らとともに布教活動を行いました。

しかし保護受けていた将軍・足利義輝が永禄の変で殺害されると、
三好党らによって京都を追われ、摂津国堺に避難します。

永禄12年(1569)、将軍・足利義昭を擁して台頭していた織田信長と、
二条城で対面した際に畿内での布教を許可され、多くの信徒を得ました。

天正11年(1583)、宣教の第一線を離れ、全国を巡りながら『日本史』を記録しました。
ルイス・フロイスの著書では、異教徒ながら信長に関して、友好的に描かれています。

秀吉が天下を統一すると、はじめは信長の対イエズス会政策を継承していましたが、
やがてキリシタン勢力が拡大すると、天正15年(1587)には伴天連追放令が発令され、
フロイスは畿内を去りました。

天正18年(1590)、帰国した天正遣欧使節を伴ってヴァリニャーノが再来日すると、
フロイスは同行して聚楽第で秀吉と会見しました。

その後一度日本を去る事となりますが、
再来日した際には『二十六聖人の殉教記録』書き残しました。

著書「日本史」で豪壮華麗で安土城に次ぐ名城と記している城はどれか。
①大津城
②膳所城
③宇佐山城
④坂本城

戦国時代には多くの城郭寺院が存在したが、本坊に高い石垣を築き、宣教師ルイスフロイスが「絢爛豪華な城のようであった」と書いた寺院はどれか。
①弥高寺
②本証寺
③敏満寺
④根来寺

フロイスが著書の中で「豊臣大坂城」の天守の屋根瓦について記述している。それはどれか。
①鉛瓦
②銅瓦
③金属瓦
④金箔瓦

答え

A.④坂本城 ④根来寺(和歌山県)④金箔瓦

天正遣欧少年使節顕彰之像
天正遣欧少年使節顕彰之像

布教責任者をクビになった?!:フランシスコ・カブラル

元亀元年(1570年)にイエズス会から派遣され来日しました。

カブラルの日本人に対する評価は非常に低く、傲慢、貪欲、不安定で、偽装的な国民というものでした。

その為適応主義を否定し、優れたヨーロッパ式を教えこむ事こそが日本人にとっても良いと考え、
日本人が司祭になる事も認めていませんでした。

カブラルは来日後畿内へ視察に向かい、堺ですでに活動していたオルガンティノやロレンソ了斎の出迎えを受け、足利義昭にも謁見しています。
さらにルイス・フロイスを伴って向かった岐阜では信長にも謁見し、
その庇護を受けることとなりました。

1573年(天正元年)には山口へ向かい、信徒の歓迎を受けました。
大友宗麟に洗礼を授けたのもカブラルです。

しかしカブラルは、日本語を不可解な言語として、宣教師たちに習得させようとせず、
日本人に対してもラテン語もポルトガル語も習得させようとしなかったり、
アジア人蔑視的な態度をとっていた為、徐々に日本人信徒らとの間に溝ができるようになっていきます。

天正7年(1579)、ヴァリニャーノが総長の名代として日本の巡察の為来日した際には、
日本人が布教に適していないという報告をしました。

しかしヴァリニャーノは畿内へ視察に行った際に、
多くの優れたキリスト教徒や、キリシタン大名に会い、
日本布教区の問題点が実はカブラルにあるのではないかと考え始めました。

視察を終えたヴァリニャーノはカブラルの宣教方針を完全に否定し、
天正9年(1581)にカブラルは布教責任者の立場を解任されました。
カブラルの後任にはガスパール・コエリョが任命されています。

グネッキ・ソルディ・オルガンティノ

オルガンティノは元亀元年(1570)に来日しました。

日本での布教はルイス・フロイスらと共に京都を初めに、適応主義をとりました。
仏教界を始めとした旧勢力の警戒や妨害があるなど、困難な中での宣教活動でしたが、
オルガンティノは徹底的な適応主義によって多くの日本人と親交をもち、
着任からわずか3年で畿内の信者は当初の1500人から1万5千人にまで増加したと言われています。

それを可能にした要因の一つとして、
オルガンティノは活動拠点を確保する事に注力しており、
着任の前年には京都に南蛮寺、天正8年(1580)には織田信長に土地を与えられると、
安土にヴァリニャーノと共にセミナリヨを設立し院長として働きました。

本能寺の変で安土城が焼かれた際にはセミナリヨも放棄されますが、
すると今度は、秀吉から大阪の土地を与えられ、高山右近の領土である高槻に移転しています。

ところがバテレン追放令が出されると、
京都の南蛮寺は破壊され、右近と共に小西行長の治める小豆島へ逃れることとなりました。

その後、右近と別れてオルガンティノは九州に身を寄せていましたが、
帰国した天正遣欧少年使節と共に秀吉に拝謁した際には、
前田玄以の仲介で再び京都在住を認められました。

オルガンティノといえば、明智光秀の娘で細川忠興の妻・ガラシャとも親交が深かったそうです。
関ヶ原の戦い前、石田三成の人質にされるのを拒否したガラシャが自邸に放火し、
家臣の手で落命した際には焼け跡を訪れ、彼女の遺骨を集めてキリシタン墓地に葬りました。

慶長10年(1605)、オルガンティノは畿内を離れ、長崎のコレジオへと向かい、4年後に死去します。

バテレン追放令のきっかけを作ったガスパール・コエリョ

元亀3年(1572)に来日し、九州地方での布教活動にあたりました。

天正14年(1586)には地区責任者として畿内の巡察を行い、
大坂城で豊臣秀吉に謁見し、日本での布教の許可を得ています。

ところがコエリョはヴァリニャーノが定めたキリシタン領主に過度の軍事援助を慎む方針を無視し、
船を建造して大砲を積込み、更にはそれを豊臣秀吉に見せたといいます。
高山右近や小西行長らはこの行為を懸念し、
コエリョにその船を豊臣秀吉に献上するように勧めましたが、これに全く応じず、
さらに秀吉はポルトガル商人が日本人を奴隷として海外に売ったことなどを知ると、
コエリョを詰問し、11ヶ条の覚書を伊勢神宮に奉献し、翌日にはバテレン追放令を発布
20日以内の国外退去を命じました。

バテレン追放令を受けてコエリョは大友宗麟有馬晴信らキリシタン大名らに対して、
豊臣秀吉に敵対することを求めましたが、人望のなかったコエリョに呼応する者はいませんでした。

その後、コエリョはフィリピンへ援軍を求めますが拒否されると、
次に再来日を伺っていたヴァリニャーノに働きかけて、大規模な軍事援助を求めるよう要請しました。

その間全国のイエズス会員たちを長崎の平戸に集結させ、
潜伏して宣教活動を控えましたが、そのうちにコエリョは死去しました。

セミナリヨ創設のアレッサンドロ・ヴァリニャーノ

天正8年(1580)に来日すると、ルイス・フロイスを通訳として各地視察に同行し、
大友宗麟・高山右近・有馬晴信らと会見したり、安土城で織田信長とも謁見しました。
この時、奴隷として連れていた黒人を信長が気に入り、弥助と名付けられ信長の直臣になっています。
さらに、安土城を描いた屏風(狩野永徳作とされる)を贈られ、
屏風は教皇グレゴリウス13世に献上されたと言われています。

ヴァリニャーノの宣教活動はトーレスがやザビエル同様に適応主義のもので、
天正9年(1581)、最初の来日の際に宣教のガイドライン、
『日本における宣教師のための儀典書』を執筆しました。

というのも、この最初の来日当時、日本地区の責任者であったフランシスコ・カブラルは、
アジア人蔑視の姿勢をとっており、
日本人司祭の育成を認めていませんでした。

それに対して日本人の資質を高く評価していたヴァリニャーノは激しく対立し、
カブラルを日本から去らせるに至っているのです。

こうして天正8年(1580)に肥前有馬と近江安土にセミナリヨを、
豊後府内にコレジオを、そして豊後臼杵にはノビシャドを設立しました。

セミナリヨ・・・小神学校。修道士になるための初等教育機関で、ラテン語の古典と日本語の古典および音楽・体育などの教育機関。
コレジオ・・・大神学校。聖職者育成および一般教養のための高等教育機関で、宣教師を志す日本人・外国人に対し、キリスト教・ラテン語・音楽・数学などの講義が行われた。
ノビシャド・・・修練院。修道会会員の養成機関。


天正10年(1582)には、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された、
4名の天正遣欧少年使節(伊東マンショと千々石ちぢわミゲル、原マルチノと中浦ジュリアン)
と共に長崎を発ちました。

これは日本人にヨーロッパを見せることと同時に、
ヨーロッパに日本の存在を知らしめるという目的がありました。

天正18年(1590)、バテレン追放令発令後に天正遣欧使節を伴って再来日し、
聚楽第で豊臣秀吉と会見しました。
この際に日本で初めての活版印刷機を導入し、
後にキリシタン版とよばれる書物の印刷を行っています。

慶長8年(1603)に巡察を終えると日本を去りました。

ちなみにコエリョから軍事援助を求められた際には、
コエリョの要請に驚き、彼が準備していた武器・弾薬を総て売り払って、
日本で処分できないような大砲等はマカオに送ることを命じています。

16世紀後半に日本を訪れた宣教師が、本国への報告で、「町の守りは堅固で、西は海、三方は深い堀で満々と水をたたえている。ベニスのようだ」と記した町はどこか。
①福岡
②大坂
③長崎
④堺

答え

A.④堺

弥助

ヴァリニャーノの初来日の際に織田信長に献上された黒人奴隷と言われています。

弥助を気に入った信長は正式に武士の身分に取り立てて、
弥助と名付け、直臣としました。

日本語も少し話せたようです。

本能寺の変の際には弥助も本能寺に宿泊しており、
明智光秀の襲撃に遭遇すると、二条新御所へ向かい織田信忠を守るため明智軍と奮戦したといいます。

250石の旗本となった三浦按針みうらあんじん

三浦按針は、オランダから東洋を目指し、日本に漂着した英国人航海士で、
英名はウィリアム・アダムスといいます。

徳川家康の外交顧問として重用されたのち、日本で初めて洋式帆船を建造しました。

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城郭検定対策

Q1.肥前日野江城主で、ヴァリニャーノの勧めで少年使節をローマに派遣したキリシタン大名は誰か。

①高山右近
②有馬晴信
③大村純忠
④大友宗麟

Q2.安土城城下町に天正9年(1581)、日本最初のキリシタン神学校が創られたが、なんというか。

①セミナリヨ
②マリエート
③ヴォーリズ
④ピエモンテ

Q3.織田信長は、日本から旅立つ宣教師を見送るため、盂蘭盆会うらんぼんえの夜安土城を提灯で飾り付けた。この時送られた宣教師は誰か。

①ザビエル
②フロイス
③オルガンティーノ
④ヴァリニャーノ

答え

②有馬晴信
①セミナリヨ
④ヴァリニャーノ

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