160.飯盛城-三好長慶の居城で全体に石垣を築いた山城、楠木公との関連は?

飯盛城 堀切 続日本100名城
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写真 戦国武将三好長慶の居城で最後の地

標高315、近畿地方では最大級の山城

戦国時代には珍しく城の全域に石垣が築かれた城で、
城は北エリアと南エリアで機能が分かれており、北エリアは防御空間、
南エリアは居住空間だったと考えられていて、石垣の分布を見ても北エリアで多く発見されています。

飯盛城は古くは『太平記』に登場し、
1348年に四条畷しじょうなわての戦いが起こると、楠木正成の子・正行らと室町幕府軍が戦い、
楠木八臣のうちの1人、奥地おくち氏は飯盛城に立て籠りました。

その後畠山義堯はたけやまよしたかが河内を支配するようになると、木沢長政きざわながまさによって恒久的な居城へと改修されました。

その時代は畠山氏や細川氏などの有力御家人が一族内で権力争いをしていたのに加えて、
次期将軍の座を巡って足利氏も一族内で争いが起こっていました。
そうした混乱の中で、飯盛城は二度にわたって攻められるなど
室町時代から戦国時代にかけて、何度も戦いの舞台となりました。

長政が三好長慶みよしながよしに討たれた後は、三好政権の拠点となり、長慶はこの地で没したといいます。

石垣や堀切、土橋などの遺構が多く残り、逸話も含めて見どころの多い城でもあります。

そんな飯盛城の魅力と、おすすめのハイキングコースを紹介していきます。

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飯盛城概要

基本データ

写真 2021年に飯盛城跡が国指定史跡に指定されました。

別名飯盛山城、河内飯盛城
別名の由来 椀に飯を盛ったように見える山容から飯盛山と名付けたことによる
所在地 大阪府大東市及び四條畷市
城地種類 山城
縄張り形式 連郭式
築城年代 1334年 – 1338年
築城者 ?、木沢長政、三好長慶
主要城主 木沢長政、三好長慶、三好義継
文化財史跡区分 国指定史跡
天守の築城年代
天守の形式
天守の構造
現在の天守の状態
現存する建築物
補足

紀伊・飯盛山城(和歌山県、北条氏)、三河・飯盛城(愛知県、足助氏)、筑前・飯盛城(福岡県、原田氏)、肥前・飯盛城(長崎県、松浦氏)、佐嘉飯盛城(佐賀県、飯盛氏)との混同に注意

利用案内

アクセスJR学研都市線「野崎」駅 徒歩90分(七曲コース)
JR住道駅発・生駒登山口行きバス「竜間」下車 徒歩約40分など
開城時間
入城料金
100名城スタンプ設置場所 大東市立歴史民俗資料館、四条畷市立歴史民俗資料館、大東市立野外活動センター(キャンピィだいとう)
スタンプ設置場所の開館時間 大東市立歴史民俗資料館 9:30~19:30※第1・第3火曜日休館
四条畷市立歴史民俗資料館  9:30分~17:00 ※月曜日休館
大東市立野外活動センター(キャンピィだいとう) 10:00~16:00※月曜日定休
主な関連施設 大東市立歴史民俗資料館、四条畷市立民俗資料館

関連サイト:登山ルート 高槻市公式HPより高槻市立しろあと歴史館

おすすめ登城ルート

ルート
四条畷駅スタート
所要時間
(登り)
所要時間
(降り)
特徴難易度
★飯盛山展望
(尾根)コース
100分70分階段が非常に多い、
眺望270°の曲輪を通り山頂に到着
滝谷楠水の場コース120分龍尾寺、権現川の分堰を通り、
楠公寺に到着
権現の滝コース150分滝谷楠水の場コースから途中分岐、
権現の滝を見て楠公寺に到着
蟹ヶ坂・室池コース230分滝谷楠水の場コースから途中分岐、
森の工作館、権現の滝を見て楠公寺に到着
★北条神社コース70分60分北条神社、山神石から飯盛城主郭部を通って
山頂へ到着

龍尾寺りゅうびじ・・・奈良時代中期に、行基が開山したと伝えられています。戦国時代には三好長慶の菩提寺となり、現在も龍神伝説が伝わるお寺です。
権現川ごんげんがわ分堰ぶんせき・・・分堰とは水の流れをせきとめて分流させる事で水量を調整する役割がありますので、権現川が飯盛山山麓の人にとって重要な川だった事がわかります。
権現の滝・・・高さ15m程の滝
森の工作館・・・自然素材での工作体験などができるそう。
楠公寺・・・楠木氏や四条畷の戦いで亡くなった人を弔うために妙法寺として創られ、後に楠公寺と名前を改めました。黒龍大明神を守護神としています。かつては馬場だったようです。
北条神社・・・応神天皇、菅原道真を祭神とする神社。
山神石・・・山で働く人々が山の神を祀った石。

ルート
野崎駅スタート
所要時間
(登り)
所要時間
(降り)
特徴難易度
絵日傘(七曲り)コース90分60分石造九重層塔、野崎城跡、キャンプ場を通り、
虎口から山頂へ到着
★南尾根コース100分70分絵日傘コースから途中分岐、大坂城石垣の
石切り場を通り、キャンプ場から絵日傘コース合流
★学校道コース150分120分専応寺、堂山古墳群、龍光寺跡を通り
キャンプ場から絵日傘コース合流

野崎観音(慈眼寺じげんじ・・・行基が開祖と言われているお寺で、「野崎まいり」で知られています。
石造九重層塔・・・北河内最古の層塔と言われ、野崎観音北側にあります。
野崎城・・・畠山氏の内紛の際、野崎城に畠山尚順が籠ったと言われていますが、不明な点が多い城です。若江城の支城だったとも言われています。
キャンピィだいどう(キャンプ場)・・・トイレや自販機、駐車場あり。続日本100名城スタンプ設置場所
大坂城石垣の石切り場・・・京極氏の大坂城石垣の石切り場。矢穴や刻印も見られます。
専応寺せんのうじ・・・浄土真宗本願寺派の寺院で、親(しんらん)の直弟子・唯言が開祖とされています。
堂山古墳群・・・7基の古墳群がある公園で甲冑や刀剣が出土しています。開場8:30~18:00(11~3月は17:00まで)
龍光寺跡・・・龍尾寺・龍間寺とともに龍神伝説が伝わっているお寺で、市内最古といわれるお地蔵様があります。

関連サイト:大東の魅力発見倶楽部作成ハイキングマップ

飯盛城跡へのハイキングコースはいくつかありますが、野崎駅スタートがおすすめです。


このルートなら駅から飯盛山に向かいながら途中の大東市歴史民俗資料館に立ち寄り、
パンフレットなどもらってから飯盛山に登り、虎口を通って山頂へ向かう事ができます。

ちなみに地元の方は北条神社ルートがおすすめって言ってたよ!


飯盛山展望(尾根)コースは、四条畷神社を通る事ができるのでこちらもおすすめです。

ただし、飯盛山展望コースは階段が非常に多いコースです。

飯盛山展望コースで降ったらめちゃくちゃ膝痛かったよ!!!!!

野崎駅スタートのルートは、時間があまりない場合は絵日傘(七曲り)コースがおすすめですが、
時間があればそれと似たコースで石切り場なども見られる南尾根コースがおすすめです。

ちなみにキャンピィだいどうまでは車で行くことができるため、
城跡のみを目的として行くのであれば、こちらの駐車場をお借りすることもできます。※駐車場有料

登山途中でケガをしたりトラブルがあった場合もこちらに立ち寄るのがおすすめです。

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歴史予習

楠木正成・楠木正行親子の戦い

1331年、後醍醐天皇は鎌倉幕府を打倒すべく足利尊氏・新田義貞らを味方に元弘の乱を起こします。
正行の父・楠木正成はその時活躍した後醍醐天皇の家臣の一人です。

しかしその後、後醍醐天皇と足利尊氏は対立してしまいます。

鎌倉幕府を滅亡させるまでは、同じ目的に向かって進んでいた楠木正成と足利尊氏でしたが、
1336年、足利尊氏率いる尊氏軍と新田義貞、楠木正成を中心とする朝廷軍が湊川の戦いで対峙しました。

湊川の戦いでは、足利尊氏の軍と朝廷軍の戦力差は明白で、
約50万人の兵を擁する尊氏軍に対して朝廷軍は約5万人、さらに尊氏軍は水軍も編成していました。


正成はこの戦いに死を覚悟して向かいました。

『太平記』によると、その途中摂津国桜井の駅で、正成は息子の正行に、
今後の生き方について訓戒を与え、別れの宴をひらき、河内に帰るよう告げたと言います。

唱歌「桜井の別れ」の場面です。

「お前を帰すのは、自分が討ち死にしたあとのことを考えてのことだ。帝のために、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族郎党のひとりでも生き残るようにして、いつの日か必ず朝敵を滅せ」


嫌がる正行にこのように伝えたと言われています。

こういう別れのシーンは他の城でも語り継がれているけど、毎回泣きそうになるよ。

飯盛城四条畷神社の桜井の別れ像
四条畷神社の桜井の別れ像


飯盛山麓にある四條畷神社には、楠木正成・正行父子の「桜井の別れ」の石像があります。


そして湊川の戦いで正成は戦死してしまいます。

湊川の戦いで勝利した尊氏は光明天皇を即位させ、室町幕府を開府しますが、
これにより南北朝時代へと突入します。

幕府軍との間で戦が繰り返され、地方も騒乱状態になります。

その10年後、1348年に父・正成の遺訓を守り、正行、正時兄弟は足利氏に戦いを挑みます。

それが四条畷の戦いです。
楠木正行と弟・正時と、室町幕府軍、高師直こうのもろなお佐々木導誉ささきどうよとが戦いました。

北朝室町幕府軍は高師直、佐々木導誉らの率いる兵6万に対して、
南朝方の楠木兄弟の兵は3千ほどだったと言われています。

お父さんと同じで、敵の軍勢のが多くても諦めずに戦いを挑んだんだね。

正行軍は、指揮をとる師直を討とうと進撃しますが、
兵も馬も次々と失い、正行は無念の涙を飲んで自害しました。

涙不可避・・・。

正行の従兄弟に当たる人物で、正行に従っていた和田賢秀わだけんかいは、
それでも一人で師直の首を狙い敵陣に潜入しますが、
かつて味方であった湯浅本宮太郎左衛門ゆあさほんぐうたろうざえもんに討たれ、首をはねられます。

その首が敵の喉に噛み付いて離れず、それが元となり本宮太郎左衛門が死んだとされており、
以来賢秀は歯噛さん、転じて歯神様と崇められるようになりました。

また楠氏八臣と呼ばれるうちの1人の恩地氏は飯盛山城に立て籠り戦いました。

しかし、戦いの結果、南朝側は正行を含めて27人もの武将が死亡し、敗北したのでした。

四條畷神社は、この戦いで敗死した楠木正行を主祭神とし、その一族の将士24人を祀っています。

飯盛城 四条畷神社の鳥居
四条畷神社

飯盛城の戦い

畠山義堯はたけやまよしたかが河内を支配するようになると、家臣の木沢長政に命じて飯盛山に城郭を構えます。

南北朝時代に臨戦的陣城として築かれましたが、
この時に恒久的な居城に改修されたと考えられています。


足利義維あしかがよしつなを擁する細川晴元が実権を握ると、
桂川原かつらかわらの戦いの軍功を挙げていた三好元長と長政は対立するようになります。

補足

桂川原の戦い・・・それまで細川晴元と権力争いをしていた細川高国を討滅した戦い。


さらに主君である畠山義堯と長政の関係が悪化すると、
三好政長と木沢長政の共謀によって晴元と離間させられていた元長もまた、義堯側について戦います。

名前がややこしすぎるよ・・・

木沢長政(畠山義堯の家臣)
細川晴元(細川高国と争っていたけど元長と共に高国を倒した)
三好政長(三好元長と権力争い)

    vs

三好元長(晴元に仕えてきたのに、三好政長と木沢長政の策略で晴元と離間)
畠山義堯(木沢長政は家臣だったけど、権力欲しさに自分を超えて細川に接触しているから危険視)

義堯は二度に渡って飯盛城を攻めます。
しかし長政から救援の要請を受けた晴元は本願寺法主・証如しょうにょの支援を取り付け、
この証如の呼びかけに応じて蜂起した総勢3万といわれる門徒衆による一向一揆が
飯盛城下に押し寄せました。

そして飯盛城を攻めている畠山・三好連合軍を後ろ攻めにし、
畠山・三好連合軍は総崩れとなりました。

これにより義堯と元長は自害させられます。(顕本寺の戦い)

この一連の戦いについては芥川城の記事にも書いています。

その後どのようにして三好長慶が台頭してきたか気になる方はそちらの記事もご覧ください。

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見どころ

石垣

三好長慶が戦国時代末期の1560年に入城した際に、大改修を行ったと考えられており、
長慶はこの城を拠点として近畿と四国の一部を統治しました。

その当時のものと考えられる曲輪跡や堀切跡・石垣などが各所に良好な状態で残存していて、
石垣の一部を見る事ができます。

石垣は野面積みで、北エリアの東側に分布が集中しています。

飯盛城御体塚郭北東斜面石垣
御体塚郭北東斜面石垣
飯盛城高櫓郭と本郭の東斜面下石垣
高櫓郭と本郭の東斜面下石垣
飯盛城本郭の中心の曲輪の北西側斜面下石垣
本郭の中心の曲輪の北西側斜面下石垣

石垣の一段目を積んだ後に犬走状の平坦面を設けてさらに二段目を積む段築状石垣にし、
高く見せる工夫などが見られます。

広範囲に分布していますので、事前に石垣の位置を確認してから登城するのが良いと思います。

堀切・土橋などの遺構

飯盛城 土橋
土橋
飯盛城 堀切
堀切

飯盛城は最高地点315.9mに高櫓曲輪が築かれ、
大きく分けて本曲輪と千畳敷曲輪で構成されていて、大小 90 余りの曲輪が残っています。

高櫓曲輪を南端に、本丸などの大規模で主要な曲輪群が南北一直線上に配置されています。

御遺体塚曲輪ごたいづかくるわは、1564年に長慶が城中において没したことが、3年間にわたり秘められ、
その遺体を仮埋葬した場所といわれています。

千畳敷曲輪には現在FMラジオ送信所が建っていますが、
周辺には堀切、虎口等の遺構が残っています。

飯盛城 千畳敷郭
千畳敷郭

馬場曲輪には楠公寺が建てられています。
楠公寺は基本的には無人だそうです。ちなみにこちらにはお手洗いもあります。

城郭検定対策

城郭検定マーク
  • 戦国武将三好長慶の居城で、最近の分布調査によりほぼ全山が石垣によって築かれていることが明らかになった。

出題歴は多くないけど、三好長慶の居城という事で、もしかしたら今後また出題されるかもしれないね!

登城難易度

★★★☆☆

整備されているとはいえ初心者には少しハードなハイキングコースになっています。
自分に合ったルート選びをしましょう。

飯盛城七曲りコース
七曲りコース
飯盛城飯盛山展望(尾根)コース
飯盛山展望(尾根)コース
飯盛城登城ルート
登城ルート


山頂は眺望がとても良く、山頂からはあべのハルカスや六甲山脈まで見渡すことができます。

飯盛城 展望台からの眺め
展望台からの眺め

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参考書籍

大阪府内の108城が写真や縄張り概要図と共に解説されており、読み応えがあります。
日本100名城・続日本100名城に選定された、芥川山城、大阪城、飯盛山城、千早城、岸和田城はもちろん、
古墳や屋敷跡も含み、ボリュームたっぷりです。

特に山城に行くときは印刷して書きこみしながら下調べしてるよ!

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