152.津城-藤堂高虎が大改修した女武者伝説の残る城

隅櫓石垣と犬走 続日本100名城
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写真 織田信包が築城し、三大築城名人として有名な藤堂高虎が大改修しました。

関ヶ原の前哨戦の舞台ともなった城

1570年に織田信長の中伊勢侵略の際に、信長が長野家へ養子として送り込んだ
弟・織田信包のぶかねが築城した城で、
後に藤堂高虎が入封し、城を拡張・大改修しました。

城は直線的勾配の高石垣や広い水堀など、いずれも高虎の築城の特徴が見えます。

本丸隅櫓石垣上から西側の景観
本丸隅櫓から西側の景観

内堀は現在一部を残すところとなっていますが、当時の南内堀は幅100mもあったと言われています。

また、高虎は城の周囲に武家屋敷をつくり、伊予から連れてきた町人たちを岩田川の南に住まわせて、
伊予町をつくったり、城下町を整備しました。

さらに、参宮街道を城下に引き入れ、城の東に堀川を切り開くなど、津の基礎を作り上げました。

以降国替えもなく、明治維新まで津は32万石の城下町として栄えました。

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津城概要

基本データ

写真 築城者の藤堂高虎は要チェック!

別名安濃津城
別名の由来 津市の古称である安濃津による。
所在地 三重県津市
城地種類 平城
縄張り形式 輪郭式
築城年代 1570年~92年
築城者 織田信包
主要城主 藤堂高虎
文化財史跡区分 県定史跡
天守の築城年代 1577年
天守の形式
天守の構造 五重であったとされる
現在の天守の状態
現存する建築物
【三大築城名人】藤堂高虎が作った城、建築の特徴解説!高虎の生涯
藤堂高虎は、加藤清正、黒田官兵衛と並んで三大築城名人といわれています。また、高虎の建築技術は多くの城で採用され、徳川幕府の城のスタンダードとなりました。そんな高虎の生涯とかかわった城一覧、建築の特徴をまとめました。...

利用案内

アクセスJR・近鉄「津駅」からバス約8分「三重会館」から徒歩で約3分
開城時間
入城料金
100名城スタンプ設置場所 高山神社社務所、津まんなかガイド詰所
スタンプ設置場所の開館時間 高山神社社務所 9:00~16:00
津まんなかガイド詰所 土・日・祝日9:30~16:00
主な関連施設

補足

津まんなかガイド詰所ではボランティアで観光案内をしている、安濃津ガイド会の方に案内をお願いする事ができますが、予約が必要なので事前に確認してください。

関連サイト:安濃津ガイド会
安濃津ガイド会提供音声ガイド:津城跡、スマホで音声案内

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歴史予習

関ヶ原の前哨戦~夫を救った女武者~

安濃津城の戦いは、関ヶ原の戦いの前哨戦の1つで、1600年に始まりました。

この戦で、当時津城城主だった富田信高とみたのぶたかは東軍につき、豊臣方の西軍に城を攻められ籠城戦をすることになります。

西軍は毛利秀元ひでもと長宗我部盛親ちょうそかべもりちか吉川広家きっかわひろいえ長束正家なつかまさいえらを筆頭に3万人の兵を擁するのに対し、
信高率いる東軍の兵は1,700人程でした。

少ない兵で必死に城を守り続ける信高でしたが、東軍の砲撃で、櫓が撃破され
二の丸、三の丸へと侵入されてしまいます。

信高自らも槍を取って応戦しますが、圧倒的戦力差を前に津城は四方を破られ陥落してしまいます。

そして信高は自刃を決意しますが、周りは敵に埋め尽くされ本丸へ戻る事すらもできません。

するとそんな中、一人の美しい顔の若武者が鮮やかな甲冑をまとい、槍を手に現れます。
その若武者は瞬く間に敵を5、6人倒し信高の前に進み出ます。
信高がその若武者の顔を覗くと、なんと信高の妻だったのです。

『武将感状記』によると、この時信高の妻は毛利秀元の家臣・中川清左衛門を討ち取ったといいます。清左衛門は大剛の士として知られています。

そして信高は妻とともに本丸に引き返すことができました。

その翌日、西軍は城内に遣いを送り信高に降伏を勧めると、信高もこれを受け入れ、
安濃津城を開城しました。

結果として3日間の籠城戦ではありましたが、信高が西軍を足止めしたその間に、
福島正則らが、西軍の岐阜城を攻略します。

信高は安濃津城の戦いの後出家していましたが、関ヶ原の戦いで東軍が勝利すると、
城は奪われたものの、大軍を相手に好戦したということで2万石の加増を受け、
安濃津城城主として返り咲きました。

女武者かっこいい~~!

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見どころ

石垣

津城の石垣は織田期に造られたものや、高虎期に造られたものが残っている為、
野面積み、打ち込みはぎ、切り込みはぎ等、時代によっていくつかの手法で積まれた石垣を見る事ができます。
西の丸付近では谷積みも見る事ができます。

他にも補修の形跡や石の刻印、矢穴、すだれやはつり仕上げなども見どころです。

本丸石垣
本丸石垣
模擬櫓付近の石垣の刻印
刻印
谷積み
谷積み
隅櫓石垣と犬走

これは高虎の特徴である直線的な高石垣ですが、
石垣の根元部分には犬走が巡らせてあるのがわかります。

津城南の公園側から見ると、石垣の途中部分に算木積みが見られ、拡張もしくは修理の跡だと言われています。

石垣にはところどころに階段があり、隅櫓や多門櫓跡に登る事ができます。

三重の模擬櫓のあたりにも階段があります。
この三重模擬櫓は昭和33年に建てられたもので、かつては多門櫓があった場所です。

三重の模擬櫓
三重の模擬櫓
石垣の上
石垣の上
補足

模擬天守や模擬櫓のように模擬〇〇とつくものは、シンボル的に、史実とは違うものを建てた場合に使われます。

藤堂高虎像

津城跡公園内藤堂高虎銅像
藤堂高虎公像

現在津城跡は公園になっていて、本丸には噴水があります。
その付近に高虎の実寸大の銅像があります。

城郭検定対策

城郭検定マーク
  • 三重の模擬隅櫓は昭和33年に建てられた。
  • 1600年の安濃津城の戦いでは、毛利秀元、長宗我部盛親らに攻められ、砲撃により落城した。

信長の伊勢侵攻の為に養子として送り込まれた例は他にもあるよ。高虎の城もたくさんある!混同しないように注意しよう!

周辺情報

藩校有造館跡

藩校有造館有造館は、津藩士の子弟教育のために創設され、藩を支える人材育成の拠点でした。

廃校後は、小学校・師範学校・中学校校舎となり、現在は石碑が建てられています。

津城内に移築された有造館の入徳門
有造館の入徳門

現在日本庭園となっている津城西の丸には、この有造館の入徳門が移築されています。

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