27.上田城-2度にわたって徳川の大軍を退けた武将・真田の城

上田城 日本100名城
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写真 真田一族ゆかりの城として現在も人気の高い城です。

上田合戦の舞台として2度も実践を経験した難攻不落の城

天正11年(1583)真田昌幸さなだまさゆきによって築城されました。

第一次上田合戦では徳川家康の大軍を退け、真田の武名を轟かせる事となりました。

その15年後の第二次上田合戦でもまた徳川軍を撃退した、難攻不落の城として知られています。

関ヶ原の合戦後、破却された上田城は仙石氏が城主の時代に再建され、
7基の櫓と2基の櫓門が建てられました。

明治維新後、西櫓1基を残しそのほかの櫓・櫓門は取り払われましたが、
そのうち2基の櫓は後に買い戻され、再移築されました。

平成6年(1994)には東虎口櫓門が復元されています。

数々の伝説が残る上田城の魅力をまとめてご紹介していきます。

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上田城概要

基本データ

写真 天守が造られたかは確認されていませんが、桃山時代のものとみられる金箔を施した軒丸瓦や鬼瓦、鯱瓦の破片などが出土しています。

別名尼ヶ淵城、伊勢崎城、松尾城、真田城
別名の由来 千曲川の分流である尼ヶ淵に面していたことによる
所在地 長野県上田市
城地種類 平城
縄張り形式 梯郭式
築城年代 1583年
築城者 真田昌幸
主要城主 真田氏、仙石氏、松平氏
文化財史跡区分 国指定史跡、県宝3件
天守の築城年代
天守の形式
天守の構造
現在の天守の状態
現存する建築物

利用案内

アクセスJR・しなの鉄道・上田電鉄別所線「上田」駅 徒歩約12分
開城時間
入城料金 櫓・櫓門観覧料 一般300円 高校生以上の学生200円 小中学生100円
100名城スタンプ設置場所 上田市立博物館、上田市観光会館
スタンプ設置場所の開館時間 8:30~17:30(入館は16:30まで)
主な関連施設 上田市立博物館

関連サイト:上田城跡公園

補足

櫓の見学ができない日もあるので要確認

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歴史予習

第一次上田合戦 徳川7千の兵をたった1,700の兵で退けた真田

第一次上田合戦は天正13年(1585)に上田城と周辺の山城などで行われた
真田氏と徳川氏の合戦で、神川合戦などとも呼ばれています。

天正10年(1582)に、織田信長によって武田氏が滅亡すると、
武田の旧臣達は織田政権に臣従しますが、その後本能寺の変で信長が没すると、
越後の上杉景勝や相模の北条氏直、三河の徳川家康などが旧織田領を侵攻し争う天正壬午の乱がおきました。

この乱は徳川・北条間で和睦が成立しますが、その和睦の条件として、
徳川傘下となっていた真田氏の上野沼田領と北条氏の信濃佐久郡を交換することとしました。

しかし真田氏は、自らの力で手に入れた沼田領を明け渡す謂われはないと拒否します。

そして徳川と対立すると、徳川と対立関係にあった上杉氏の傘下に入ります。

これによって家康は真田討伐を決め、鳥居元忠とりいもとただ大久保忠世おおくぼただよ平岩親吉ひらいわちかよしら率いる、
7,000~8,000とも言われる大軍を上田城に派遣しました。

これに対して、真田の兵は、真田昌幸率いる上田城の本隊1,000、
丸子三左衛門率いる丸子城の兵500、矢沢頼康率いる矢沢城の兵300、真田信之率いる戸石城(砥石城)の兵500、
計2300程だったといわれています。

上田城に攻め寄せた徳川方は二の丸まで進軍しますが、
ここで一気に反撃を受け、さらに後方の街からの忍衆や伏兵による攻撃、
戸石城からの援軍が横から攻め入るなどで混乱に陥り、退却します。

さらに退却の際に事前にせき止めていた神川の放流によって溺死した者も多数おり、
1300人もの死者を出したと言われています。

一方この時の真田方の被害はわずか40名程度だったそうです。

一旦は退却した徳川軍でしたが翌日、上田城から標的を丸子城へと移します。

しかしすぐに駆け付けた上杉方と真田方の軍と20日程度の睨みあいをした後、退却しました。

この戦いによって、真田は優れた知略で武名を轟かせることになりました。

第二次上田合戦 父子の戦いと犬伏の別れ

第一次上田合戦後、真田昌幸、徳川家康共に豊臣政権に臣従していました。

しかし慶長3年(1598)に秀吉が没すると、
豊臣政権の五大老筆頭であった家康の力が強まっていきました。

家康による勝手な振る舞いを見過ごせない豊臣家臣は、
五奉行の石田三成を中心に、毛利輝元を総大将として挙兵する事になります。

これにより関ヶ原の戦いが起こります。

はじめは、真田氏は徳川方東軍に従っていましたが、
慶長5年(1600)、真田昌幸と次男・真田信繁(幸村)が離反し、
西軍に与することとなりました。

長男の信之は東軍なのに、家族内で分裂しちゃったんだね・・・

これまでの通説によると、

西軍東軍どちらが勝利しても真田一族が残れるように分かれたといわれています。
この真田家の密談は後に、密談が行われた地にちなんで、
犬伏の別れと呼ばれるようになりました。

ちなみにこの場所は、下野国犬伏の事で、現在の栃木県佐野市犬伏町と言われています。

戦国の乱世を生き残る為だとしても家族がバラバラになるなんて。

また、長男・信之の妻は家康の養女であり、
信繁の妻は西軍、大谷吉継の娘で、
昌幸の妻が石田三成の妻とは姉妹の関係にあったなどの理由も指摘されています。

いずれにせよ、父・昌幸と次男・信繁は西軍に、長男・信之は東軍となりました。

三成ら反徳川勢力の挙兵を知った家康は、
東海道を進軍し、関ヶ原の戦いへと向かいました。

この時、家康の三男で、後の二代目将軍となる徳川秀忠は、
宇都宮で上杉への備えに当たった後、中山道を通り、関ヶ原に向かう予定でした。

その途中で上田城からもほど近い小諸城に入った際、
昌幸は、長男・信之を通して徳川軍に対して降伏の意思を示しましたが、
実はそれは秀忠の軍勢を足止めする為の策略で、その間に戦支度をしました。

準備が整うと、昌幸は宣戦布告をし、秀忠軍を挑発しました。

これにより第二次上田合戦に発展していきます。

秀忠は真田攻めに際して、長男・信之を先鋒に任じました。

信之は、信繁の守る上田城の支城・戸石城に攻め込むと、弟・信繁は撤退し上田城へと移ります。

しかしこの兄弟の戦いすらも真田によって図られたもので、
実は空砲を使っていたという説もあります。

戸石城を落とした後、秀忠軍は上田城下の稲を刈り取ったり、挑発行為を繰り返しましたが、
足止めが目的の真田軍は一向に動きませんでした。

しかし秀忠の軍が城下町まで差し掛かり、破壊を始めると、
わずか300ほどの兵で討って出ました。

そしてすぐに後退し、徳川軍がそれを追って三の丸までなだれ込むと、
一気に真田軍が反撃し、城下に潜んでいた伏兵や忍衆らによって徳川軍は混乱状態となり、
小諸城に退却する事になりました。

さらに秀忠の軍が小諸城に到着してすぐに、秀忠の元に家康から書状が届き、
そこには、美濃赤坂に着陣せよと記されていましたが、
指定された日はなんと秀忠が書状を受け取った翌日となっていました。

天候の影響などもあり、書状が届くまでに通常より時間がかかったとも言われていますが、
当然秀忠は関ヶ原本戦には間に合わず、真田の知略はここでも成功しました。

補足

この第二次上田合戦は実は小競り合い程度で、大きな合戦は起きていないという説もあります。

秀忠が間に合わなかった事によって東軍に大打撃を与える事には成功しましたが、
結果的に東軍が関ヶ原の戦いに勝利すると、
真田昌幸、二男・信繁は現在の和歌山県にある九度山へ配流となりました。
そして長男・信之は上田城主となりました。

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見どころ

尼ヶ淵

上田城 尼ヶ淵側から見た石垣
尼ヶ淵側から見た石垣

上田城の別名にもなっている尼ヶ淵ですが、
上田城南側の崖下はかつて千曲川の分流があり、天然の堀となっていました。
崖面はもろく崩れやすい性質だった為、大規模な石垣が築かれています。

尼ヶ淵の要害を造る特徴的な地層は、
上田泥流層が上にあり、その下は河床礫層かしょうれきそうとなっています。

尼ヶ淵側の石垣には水抜き穴があります。
また上田城には二の丸堀にも水抜きの石樋があります。
こちらは1702年の修復の際に木の樋から石の樋に変えたといわれています。

上田城 石樋
石樋

上田城 南櫓
南櫓
上田城 西櫓
西櫓

上田城には7基の櫓が造られましたが、そのうち3基の櫓が残っています。

南櫓・北櫓は明治11年に移築され、遊郭として利用されていましたが、
昭和17年に買い戻され、現在の位置に再移築されました。

西櫓は尼ヶ淵の河岸段丘上に築かれた本丸隅櫓で、
当時から移築等もされることなく残されています。

石垣・真田石

上田城 東虎口櫓門
東虎口櫓門

東虎口櫓門の右側には鏡石があります。
これは真田信之が松代城移封にあたり、父・真田昌幸の形見として運ぼうとしたところ、
微動だにしなかったという伝説があるそうです。

上田城 真田石
真田石

この真田石の他、城内の石垣に使われた石材のほとんどが、
市街地北方の太郎山産の緑色凝灰岩を使用しています。

隅おとし

上田城 隅おとし
隅おとし

本丸に見られる「隅おとし」は上田城の特徴のひとつです。
上田城本丸の北東(丑寅)の方角は鬼門にあたることから
土塁の隅を切り込み「鬼門よけ」としたものです。

補足

鬼門・・・北東のこと。
陰陽道での考え方によると、この方角から鬼が出入りすると考えられています。

周辺情報

真田氏本城跡

真田氏本城 本郭
本郭

築城年代ははっきりとはわかっていませんが、
天文年間、あるいは鎌倉期とも言われています。

上田城築城以前は、真田氏の本城で、昌幸の父・真田幸隆(幸綱)の居城だったと考えられています。

真田氏本城
真田氏本城

バス停からは少し歩きますが道も整備されており、
目の前まで車でも行けるので登城難易度は非常に低いです。

上田藩主居館跡

上田城藩主邸跡
上田城藩主邸跡

関ヶ原の合戦後、真田信之が居館を構えた跡地です。

居館表門は現在上田高校の正門として利用されています。

砥石城跡

砥石城
砥石城・米山城

城のはじまりについては正確にはわかっていませんが、
村上義清によって室町時代後期に造られたと考えられています。

真田氏が上田城へ移った後は上田城の支城となりました。

上田駅からバスで「伊勢山」下車、急な階段が続きますので、
整備はされていますがそれなりに体力がいるかも。。。

城郭検定対策

城郭検定マーク
  • 真田幸隆の頃は真田本城を居城としていたが、昌幸の頃に上田城を築城し移った。
  • 本丸東虎口には真田石と呼ばれる鏡石がある。
  • 一次上田合戦では鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らが率いる徳川軍に攻められたが退けた。
  • その15年後の二次上田合戦では徳川秀忠を総大将に、榊原康政、真田信之(信幸)らが率いる徳川軍に攻められたが再度退けた。

近辺には真田に関連する城が多く、選択肢として出題される事も多いよ!

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