29.松本城‐特徴的な天守群はいつ、なぜ造られたのか?住民に守られた現存天守

松本城 天守群 日本100名城
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写真 複雑な構造で魅力的な城

住民によって守られてきた国宝の現存天守

鎌倉幕府滅亡後、小笠原貞宗が信濃守護として井川館、林城を築き、
永正元年(1504)に小笠原氏の一族である島立貞永しまだちさだながが支城として築いた
深志城ふかしじょうが前身と言われています。

天文19年(1550)に武田信玄が深志へ攻め込み、平城であった深志城を拠点とし改修しますが、
武田氏が滅亡すると小笠原貞慶さだよしが深志城主となり、
名を松本城と改め、城下町も整備しました。

その後秀吉によって家康が関東移封となり、小笠原氏が古賀へ移封されると、
石川数正が入封し、天守や本丸御殿・二の丸御殿を築きました。

しかし大久保長安事件に連座して石川氏が失脚すると、再び小笠原氏が城主となります。

小笠原氏が大阪の陣で戦死して以降は、松平康長や水野家などの松本藩の藩庁となり、
その後は戸田松平家が代々居城としました。

天守群は現存する天守として昭和11年(1936)に国宝に指定されています。

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松本城概要

基本データ

写真 詳細まで城郭検定対策必須の城です。

別名深志城
別名の由来 深志郷という地名による
所在地 長野県松本市
城地種類 平城
縄張り形式 梯郭式と連郭式
築城年代 1593年頃
築城者 石川数正、康長
主要城主 石川氏、小笠原氏、松平氏、堀田氏、水野氏、戸田氏
文化財史跡区分 大天守、乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓‐国宝、国指定史跡
天守の築城年代 1593年頃
1633年~1638年
天守の形式 層塔型の外観だが内部は望楼型のような構造になっている
天守の構造 連結複合式 五重六階
現在の天守の状態 現存
現存する建築物 土蔵

利用案内

アクセスJR篠ノ井線「松本」駅からバスで約8分「松本城・市役所前」下車 徒歩約3分
開城時間 8:30~17:00 (最終入場は16:30まで)
入城料金 大人700円 小中学生300円
100名城スタンプ設置場所 松本城管理事務所(有料区域本丸庭園内)
スタンプ設置場所の開館時間 8:30~17:00
主な関連施設

関連サイト:国宝 松本城

補足

開場時間はゴールデンウィーク時間延長期間、夏季時間延長期間があります。

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歴史予習

住民により破却を免れてきた現存天守

本丸御殿は享保12年(1727)に焼失し再建されず、
二の丸にあった古山地御殿こさんじごてんは明治になって取り壊され、
二の丸御殿は筑摩ちくま県庁として使用されていましたがこちらも焼失しています。

しかし天守は国宝に指定され、現在も残されています。

ただその存続も簡単なものではありませんでした。

廃藩置県、廃城令など明治維新の流れの中で、
天守は明治4年(1871)に松本県から兵部省へ引き渡され、競売にかけられました。

そんな中で下横田町の肝煎きもいり・副戸長であった市川量造りょうぞうは、
筑摩県あてに建言書を提出し、本丸・天守での博覧会開催を提案しました。

補足

肝煎・・・村の世話役や村役人の事で、庄屋などを指す。

この博覧会は明治6年の第1回から、明治9年まで5回開催されています。
博覧会の開催があったため、天守の建物は破却されることなく残りました。

しかし明治9年(1876)に信濃国が長野県に、
飛騨国が岐阜県に合併されて筑摩県が廃止されるとともに博覧会も終わり、
天守は管理が行き届かなくなりました。

次第に外装も劣化し、石垣の中にあって土台を支持してきた柱が腐り、
天守の傾きも生じてきていました。(傾いた城伝説)

松本城 土台内部の柱
天守内部に展示されている柱

そしてこれを直すために、明治時代に大修理が行われました。
これに尽力したのが長野県松本中学校長・小林有也うなりです。

時の松本市長・小里頼永おりよりながらと松本天守保存会を立ち上げ、広く人々から募金を集めました。

この時の経費の約8割が寄付金で賄われたそうです。

この修理は明治36年(1903)から始まり、日露戦争の時期をはさんで、
大正2年(1913)に完了しました。

さらに太平洋戦争終結後の昭和21年、GHQ民間情報教育局の美術顧問による視察の結果、
解体修理の必要を認められました。

こうして昭和25年には、全面解体修理が施されました

傾いた城伝説

貞享3年(1686)、松本で貞享騒動じょうきょうそうどうと呼ばれる百姓一揆がおこりました。

松本藩から分かれた諏訪領や高遠領の村の年貢米は、籾一俵が米二斗五升挽だったにも関わらず、
松本藩では米三斗挽に引き上げられていました。

明治以前は、一俵に米が何斗入るかは一定じゃなかったんだね。ちなみに米一斗は15kgぐらい、一升は1.5kgぐらいだよ。

このように当時の松本藩の年貢は近隣の藩に比べて厳しく課せられており、
困窮した農民が一揆をおこしたのです。

貞享騒動は多田嘉助が中心となっていた為、加助騒動、嘉助一揆とも呼ばれます。

この一揆によって1万人もの農民が松本に集まり、
嘉助らは、二斗五升挽の要求など五ヶ条の要求をしました。

この事態を重く見た城代家老は、早期に騒動を収拾するべく、
農民たちの要求をいくつか受け入れ、それを書いた紙を農民たちに示しました。

しかし藩は年貢減免の約束を反故にし、村々から先に渡した覚書を返上させ、
翌月には関係者を捕らえて処刑しました。
中でも一揆の首謀者である多田嘉助を中心に8名が磔刑に、20名が獄門の
極刑処せられ、これは百姓一揆史上でもかなり大規模な処刑でした。

嘉助がはりつけにされる場所には多くの人びとが集まり、
念仏をとなえたり、赦免を求めて叫んだり、悲しみ泣きました。

そして嘉助は磔柱から
「2斗5升、2斗5升、2斗5升・・・。」と繰り返し叫びながら、
天守を睨みつけ、息絶えたといいます。

その嘉助が天守を睨みつけた瞬間、恐ろしい地ひびきとともに天守が西に傾いたと伝えられています。

しかし天守傾きの真相は前述の柱の劣化によるもので、
この伝説は明治に入ってから作られたもののようです。

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見どころ

松本城の特徴的な現存天守群

松本城 天守群
天守群

天守群の築造は二期に分かれ、建築・構造に違いがあります。

中央の大天守と北端の乾小天守(写真右側)、
それを渡櫓で連結した3棟は、文禄2~3年(1593~94)にかけて
豊臣秀吉の家臣である石川数正、康長父子により築造
されました。

これら3棟は、江戸の家康を監視する城として、
甲府城・高島城・上田城・小諸城・沼田城とともに秀吉側の城主が配置された
江戸包囲網の城のひとつといわれています。

戦国の乱世の中で、敵と戦う事を想定した造りとなっており、
狭間が115ヶ所、石落も11ヶ所設けられています。

天守の壁も厚く作られ、鉄砲戦への備えも伺えます。

一方天守の南東に付設されている辰巳附櫓と月見櫓(写真左側)は、松平直政により
寛永10~15年(1633~1638)に築造された
ものです。

松本城 月見櫓内部
月見櫓内部
松本城 月見櫓外観
月見櫓外観

戦が絶えない戦国時代から数十年経ち、江戸時代初期の平和になった時代に造られたもので、
戦う備えをほとんど持ちません。

松本城は、このように異なる時代に建築された天守・櫓が複合、連結している
複雑な構造となっています。

また外観は層塔型でありながら、内部の構造は望楼型のようになっているのも、
大きな特徴のひとつです。

天守の修理に伴った変化としては、
明治の大修理の際には傾きが直された他、新しい窓が設けられました。

昭和の大修理では全面的に解体修理され、天守基礎を鉄筋コンクリートにするなどの強化と、
明治修理の際に改変された部分を取り除き、江戸時代の姿により近い姿となりました。

またこの時に捨て瓦が置かれました。
これは上の階の屋根から雪が凍ってすべり落ち、平瓦や丸瓦をいためるのを防ぐためのもので、
屋根の上に平瓦が敷かれているところが数か所に見られます。

松本城 内堀
松本城 内堀

黒門・太鼓門

黒門

黒門は本丸御殿に通じる格式高い門として、櫓門の一の門と、高麗門の二の門によって
枡形が形成されています。

屋根の瓦は昭和の大修理の際に保存していたまだ使える瓦を、
復興の際に再利用した為、複数の城主の家紋が見られます。

この復興に際して、黒門の設計図がなかったため、
設計を依頼した市川清作氏が、名古屋城の渡り櫓門を参考にしたと言われています。

松本城 黒門
黒門 一の門
松本城 黒門
黒門 二の門

太鼓門

太鼓門枡形の一の門は、江戸時代は倉庫として使用されていました。

松本城 太鼓門
太鼓門 一の門

明治初年に破却されましたが、平成4年に石垣が復元され、
さらに平成11年に土台石の形に合わせて太鼓門が復元されました。

太鼓門北側門台上には太鼓楼があったとされ、鐘と太鼓が備えられていました。

また太鼓門の玄蕃石は、松本城最大の石で、
時の城主である石川玄蕃守康長の名にちなんで玄蕃石と呼ばれています。

松本城 太鼓門の玄蕃石
太鼓門の玄蕃石

この巨大な石が発見された時、太鼓門の脇にすえる石に丁度良いということになり、
当時の城主である石川康長が自らが石の上に乗り、城まで運ぶことになりました。

ところが、石を運ぶ者の中に不満を言う者がいました。
それを聞いた康長は石から飛び降りると、不満を訴えた者の首を大勢の前ではねました。

槍をとると、その首を突き刺して高くかかげ、ふたたびその大石の上に飛び乗ると
大声で号令をかけ、また石を引かせたそうです。

それ以来この石は玄蕃石と呼ばれるようになったそうです。

この石は約22.5トンの巨大な岩で、運搬の苦労がこのような伝説で伝えられています。

城下町

松本城の縄張りは本丸を内堀が囲み、その外に二の丸が梯郭式に配され、さらにそれを外堀で囲み、
その外に武士を住まわせ三の丸として、それを総堀がぐるりと取り囲んでいます。

ここまでが城郭の範囲ですが、三の丸の中だけに武士の居住区を確保できなかったため、
次第に三の丸の外に武家住宅地が広がっていきました。

また、町人地の中にも一部武家住宅地がおかれていた箇所もありました。

町人の居住区は善光寺街道に沿った場所に広がっていました。

中心になる本町・中町・東町という3つの町があり、これを親町三町と呼びます。

城下町の東西南北の入口には、4つの十王堂が置かれました。

城郭検定対策

城郭検定マーク
  • 武田氏の支配下にあった頃、武田四天王と呼ばれる馬場信房(信春)によって修築された。
  • 二の丸太鼓櫓の櫓門脇には武将にちなみ、玄蕃石と名付けられた巨岩がある。
  • 現存12天守唯一の平城で国宝に指定されている。
  • 天守は連結複合式で外観は層塔型で内部は望楼型の構造になっている。
  • 廃藩置県で売却された城を町の副戸長が中心となって買い戻した
  • 城の堀からは乱杭が発見されている。

天守の複雑な構造の理解と明治以降の歴史にも注目だね!

松本城 天守内部に展示されている建言書
天守内部に展示されている建言書・懇願書

周辺情報

餌差町えさしまちの十王堂

画像準備中

城下町の東西南北の入口に置かれた十王堂で、唯一十王の像が残っている所になります。
餌差町は東の出入り口にあたりますが、
西の方にあったものを昭和11年に現在の場所に移築したものだそうです。

十王は人間の死後に善悪を裁く者と信じられていました。

この餌差町に祀られている閻魔大王えんまだいおうはその中心的人物で、
この裁判によって極楽にいけるか地獄に落ちるかが決まりました。

この十王を出入口に祀り、
疫病や災害や悪戯者などが城下に入らないように保護をしてもらうことを願ったそうです。

嘘をつくと、閻魔様に舌を抜かれるぞ~~!!!!

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