28.小諸城‐穴城と呼ばれる珍しい縄張り!重要文化財などの見どころ紹介

小諸城 三の門 日本100名城
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写真 江戸時代には小諸藩の藩庁が置かれ、主に譜代大名が城主となった重要な城でした。

戦国時代に武田信玄が攻略し、山本勘助・馬場信房らに命じて
拡張整備し、原型が造られたと言われています。

豊臣政権成立後は仙谷氏によって改修され、
三重の天守が造られ、近世城郭へと整備されました。

城郭部が城下町より低い位置にある事から穴城とも呼ばれました。

明治時代には懐古神社が造られ、
現在は懐古園として一般に公開されています。

そんな小諸城の見どころや歴史をご紹介します。

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小諸城概要

基本データ

写真 穴城と呼ばれる珍しい立地がポイント

別名酔月城、白鶴城
別名の由来
所在地 長野県小諸市
城地種類 平山城
縄張り形式 梯郭式
築城年代 1554年、1614~15年
築城者 武田信玄、仙石秀久
主要城主 武田氏、仙石氏、徳川氏、松平氏、青山氏、酒井氏、西尾氏、石川氏、牧野氏
文化財史跡区分 重要文化財―大手門、三の門
天守の築城年代 1590年頃
天守の形式
天守の構造
現在の天守の状態
現存する建築物 大手門、三の門

利用案内

アクセスしなの鉄道・JR小海線 「小諸」駅下車 徒歩約5分
開城時間 9:00~17:00 冬季は16:30まで
入城料金 散策券 高校生以上300円 小中学生100円
100名城スタンプ設置場所 懐古園事務所入り口
スタンプ設置場所の開館時間 8:30~17:00
主な関連施設 徴古館

関連サイト:小諸城址懐古園

各施設紹介

小諸城址懐古園では複数の券が販売されています。

料金は下の表の通りですが、散策券を買っても後で各施設で追加料金を払う事で
共通券に差し替える事が可能です。

高校生以上小・中学生
共通券
(懐古園内散策、動物園、藤村記念館
徴古館、小山敬三美術館、小諸義塾記念館)
500円200円
散策券
(懐古園内散策、動物園)
300円100円
単独券200円100円
料金表

懐古園内散策・・・天守台や本丸跡を見る為ならこれだけで問題ありません。

藤村記念館・・・小諸城址懐古園にゆかりのある明治の文豪・島崎藤村しまざきとうそん
作品、資料、遺品などが展示されています。

徴古館・・・小諸城に関わる武器、甲冑、古文書、署画などが展示されています。

小山敬三美術館・・・小諸市出身の洋画家・小山敬三の寄付による美術館です。

小諸義塾記念館・・・明治に開校された私塾の校舎が、平成6年に復元移築されたものです。
島崎藤村もここで教鞭をとったそうです。当時の資料などが展示されています。

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歴史予習

小諸城の歴史

起源は小室太郎光兼が、宇頭坂に築いた館(宇頭坂城)に始まると考えられています。

やがて小室氏は南北朝時代に衰退し、大井氏が小諸佐久地方を支配するようになりますが、
戦国時代に入り、戦国の騒乱によって大井宗家は滅亡します。

その頃大井家の一部は小諸に逃れ、中沢川のほとりに小諸城の前身である鍋蓋城を築城し、
さらにその子孫が乙女城、別名白鶴城を現在の二の丸付近に築城し、
周辺の要地にも支城を配置しました。

天文23年(1554)には鍋蓋城と、支城の乙女城を武田信玄が攻略し、
山本勘助・馬場信房に命じて拡張整備
し、現在の小諸城の原型が出来上がっていきました。

武田氏が滅んだ後は、上野国と信濃佐久郡・小県郡は織田家臣・滝川一益の領地となりましたが、
本能寺の変後一益が本国伊勢に帰還すると、しばらく徳川、北条、上杉、真田などによって
争奪戦が繰り広げられた後、秀吉の仲裁によって徳川の支配下に入りました。

天正18年(1590)、豊臣秀吉が天下統一を果たすと、仙石秀久が入城します。

秀久は城の大改修と城下町の整備に取り掛かり、現在のような構えとなりました。

その頃に三重の天守も建てられましたが、寛永3年(1626)に落雷によって焼失しました。
天守には仙谷氏の家紋である桐紋の金箔押瓦が用いられていたと言われています。

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに向かう徳川秀忠の東軍は中山道を進み小諸城に入ります。

この時、西軍・真田氏の上田城を攻めた第二次上田合戦が起こっています。
秀忠軍が苦戦の末に関ヶ原本戦に遅参してしまったという逸話で知られています。

江戸時代には秀久が初代小諸藩主となり、小諸藩の藩庁が置かれます。

仙石氏は秀久の子・忠政の時に上田城に転封となり、小諸城は徳川家光の弟・忠長が領有しました。
その後は松平氏、青山氏、酒井氏などめまぐるしく城主が交代しますが、
元禄15年(1702)に牧野康重が移封された後は国替えは行われず、
牧野氏10代・康済の時に明治を迎えました。

明治4年(1872)の廃藩置県で小諸城は廃城となり、
明治13年(1880)に城郭は小諸藩旧士族へ払い下げられ、
旧士族により本丸跡に懐古神社が建立され、懐古園と名付けられました。

大正15年(1926)には公園の父と呼ばれる造園家・本多静六ほんだせいろくの設計により、
近代的な公園へと改修されました。

小諸城 懐古神社
懐古神社

初代小諸藩主・仙石秀久ってどんな人?

秀久は天文21年(1552)、美濃国の土豪・仙石治兵衛久盛の四男として生まれました。
仙石氏は父の代から斎藤家に仕えていました。

その後越前国の豪族・萩原国満の養子となりますが、
仙石家の嫡男が相次いで倒れると急遽呼び戻され、仙石氏の家督を継ぐことになります。

永禄10年(1567年)、主君の斎藤龍興が織田信長との稲葉山城の戦いに敗れて落ち延びた後、
信長は秀久の風貌を気に入り、配下である羽柴秀吉の寄騎に任命したと言われています。

見た目が気に入って取り立てるなんて一体どんな人だったんだろう。

当時14歳ほどでしたが、羽柴隊の馬廻衆として各地を転戦し、
最古参の家臣として秀吉に寵愛されました。

やがて信長の中国攻め、淡路遠征、本能寺の変後の山崎の戦い、紀州征伐、四国攻めと
秀吉の元で功績を挙げていき、讃岐一国を与えられる程となりました。

しかし天正14年(1586)、九州征伐が始まると、
戸次川の戦いでは島津家久率いる島津軍により、壊滅的な打撃を受け敗北します。

豊後国にて防備を固めよという秀吉の命令を順守せず、
独断で戦を仕掛けた上で敗北した事により秀吉の怒りを買い、
仙石氏は改易となり、秀久は高野山に追放処分となってしまいます。

天正18年(1590年)に小田原征伐が始まると、秀久は三男・忠政と共に
美濃国で旧臣らを集め、浪人衆を率いて参陣しました。

秀久敵兵を引き付ける為に鈴を陣羽織一面に縫いつけ合戦に参加し、
鈴鳴り武者の異名をとったという逸話も残されています。

さらに自ら槍を振るい武功を挙げました。

戦後、秀吉に謁見を許された秀久は赦免され、
さらに、旧領の半分に相当する5万石を信濃国小諸に与えられ、大名として豊臣家臣に復帰しました。

豊臣政権下では領地の小諸城ではなく、秀吉の家臣として京に滞在していたとされています。

文禄元年(1592)、朝鮮出兵が始まると名護屋城の築城工事で功績を挙げ、
文禄3年(1594)に始まった伏見城築城工事においても同様の功績を挙げたため、
5万7,000石の大名となりました。

『一色軍記』には築城に関わった伏見城では大盗賊・石川五右衛門捕縛したとの伝承が残っており、
五右衛門が盗もうとした千鳥の香炉を褒美として与えられたと言われています。

伝説の抜け忍だ!!

慶長3年(1598)に秀吉が死去した後、
慶長5年(1600)の会津征伐に参加を求める家康に応えて兵を招集し、
立て続けて関ヶ原の戦いが起きると小諸を引き続き鎮撫しています。

この時嫡男とされていた次男・秀範は西軍に与した事から勘当されています。

信濃に徳川秀忠が着陣すると、真田攻めの為に小諸を本陣に定めた秀忠軍に参陣しました。

ところが秀忠は上田城の戦いで足止めを食い、関ヶ原本戦に遅参して家康の逆鱗に触れます。

秀久は2人の間を執り成す事に務め、外様ながら秀忠を補佐して深い信頼を得て、
後に秀忠が征夷大将軍に任ぜられると特に重用されるようになります。

所領面では旧領を安堵され、信濃小諸藩の初代藩主となりました。

秀久は藩主となると城の大改修に取り掛かり、24年間の治世で大手門や黒門、
二の丸を増築して、近世城郭としての堅固な城を完成させました。

さらに城の改築と同時に領地の開拓や城下、街道、宿場の整備にも力を注ぎました。
秀久は城下の視察に向かう際、健速神社旧地の祇園の宮をよく参拝しており、日頃通ったその坂は今でも権兵衛坂(権兵衛=仙石秀久)と呼ばれています。

一方で大規模な開拓事業の為に農民達には過酷な課役を与えたことで、
佐久郡では一郡逃散という事態が起きています。

しかし、その後は年貢の減額・猶予による農民の帰還や、
農村の有力者に恩給を与えて家臣化するなど改善策にも取り組んでいます。

幕府からの信頼は篤く、豊臣恩顧の大名達の中で、外様大名としてはかなり厚遇されました。

慶長19年(1614)、江戸から小諸へ帰る途中に発病し、武州鴻巣にて63歳(もしくは64)で死去しました。

仙石家旧蔵資料「仙石秀久」
仙石家旧蔵資料「仙石秀久」
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見どころ

大手門・三の門

大手門

小諸城 大手門
大手門

大手門は慶長期に築かれた本瓦葺の二層門です。

現存する大手門は二代目で、明和2年(1765)に建てられました。
平成16年~19年にかけて江戸時代の姿に復元することを目的に修理工事されています。

平成5年には重要文化財にも指定されています。

三の門

小諸城 三の門
三の門

懐古園の玄関口ともいえる三の門は、
寛保2年(1742)の寛保の戌の満水と呼ばれる大洪水により流失し、
現存しているものは明和2年(1765)頃の再建と考えられています。
二層、寄棟造、瓦葺の門で、両柚での塀には矢狭間・鉄砲狭間が付けられています。

三の門に掲げられた扁額へんがくは徳川宗家16代当主・徳川家達の筆によるものです。

三の門も平成5年に重要文化財に指定されています。

補足

扁額・・・室内や門戸、鳥居の高い位置にかかげる看板で、主にその建物や寺社名が書かれる。

島崎藤村の詩碑

画像準備中

文豪・島崎藤村は、小諸義塾の教師として招かれ、
小諸馬場裏の屋敷跡に新居を構え、小諸で6年間暮らしました。

藤村の千曲川旅情の歌の一部です。

千曲川旅情の歌

小諸なる古城のほとり
雲白く遊子いうし悲しむ
緑なす繁蔞はこべは萌えず
若草も藉くによしなし
しろがねの衾の岡邊
日に溶けて淡雪流る

“古城”は小諸城址・懐古園のことであり、現在、園内の一画に詩碑が建立されています。

城郭検定対策

城郭検定マーク
  • 城下町より城が低地にある穴城と呼ばれる縄張り
  • 三の門に掲げられた懐古園の扁額は徳川宗家16代当主・徳川家達によるもの。
  • 文豪・島崎藤村が千曲川旅情の歌で「小諸なる古城のほとり…」という詩を詠んだ。

藤村の詩も覚えておこう!

周辺情報

西念寺

画像準備中

小諸城初代藩主・仙石秀久公は西念寺を菩提寺と定めました。
遺骸は小諸の西念寺で火葬されたといわれていますが、
墓所が複数存在する事から分骨が行われたと考えられています。

アクセス:長野県佐久市岩村田1188番地
JR小海線 「岩村田」駅 徒歩約5分


芳泉寺

画像準備中

開創当時は真田信之の菩提寺で、信之の正室小松姫の墓があります。
信之の後に上田城主となった仙石忠政が小諸の宝仙寺をここに移し、円覚院芳泉寺としました。

また秀久の墓所が複数存在するうちの一つで、
『改選仙石家譜』では芳泉寺の墓所を正式な霊廟としています。

中棚荘

島崎藤村が「千曲川旅情の歌」を執筆したのが、中棚鉱泉といわれており、
現在は中棚荘という旅館となっています

大正館の藤村の間は、藤村執筆の部屋を復元したものだそうです。

関連サイト:中棚荘

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