30.高遠城‐桜の名所として有名な高遠の歴史的出来事と見どころ紹介!

高遠城 日本100名城
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写真 山本勘助による武田流築城術によって造られた城

桜の名所として有名な高遠城址公園

高遠城の築城年代は不明ですが、当初は南北朝時代にこの地を治めていた
諏訪氏の一族、高遠氏の居城でした。

戦国時代になると武田信玄が高遠を攻め、
7代当主・高遠頼継は降伏し、これ以降、高遠城は武田氏の城となります。

その後武田氏の命で山本勘助や、秋山信友によって
甲州流築城術を取り入れ、大規模な改築がされました。

武田勝頼の代になると、新たに新府城を築城し、仁科氏が城主となります。
この頃高遠城の戦いが起こります。

江戸時代に入ると高遠藩の藩庁となり、明治維新まで存続しました。

現在は高遠城址公園として整備されており、
公園内には国の登録有形文化財に指定されている高遠閣や
城下から移築された問屋門、
大正2年に本丸南隅櫓跡に建てられた太鼓櫓、新城藤原神社、碑文等があります。

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高遠城概要

基本データ

写真 明治維新を迎えた内藤氏は8代まで続いています。

別名兜城、兜山城
別名の由来
所在地 長野県伊那市
城地種類 平山城
縄張り形式 梯郭式
築城年代 不明
築城者 不明、武田信玄
主要城主 高遠氏、秋山氏、武田氏、仁科氏、下條氏、保科氏、毛利氏、京極氏、鳥居氏、内藤氏
文化財史跡区分 国指定史跡
天守の築城年代
天守の形式
天守の構造 天守代用の二重櫓?
現在の天守の状態
現存する建築物 進徳館

利用案内

アクセスJR飯田線「伊那市駅」又は「伊那北駅」下車、JRバス(高遠行)約25分、徒歩約15分
開城時間 24時間 ※観桜期8:00~17:00
入城料金 無料 ※観桜期 大人500円 小中生250円
100名城スタンプ設置場所 伊那市立高遠町歴史博物館
スタンプ設置場所の開館時間 9:00~17:00(最終入館時間 16:30)
主な関連施設 進徳館、伊那市立高遠町歴史博物館

関連サイト:伊那市公式ホームページ高遠城址公園

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歴史予習

高遠城の戦い

高遠城の築城年代は不明ですが、当初は南北朝時代にこの地を治めていた
諏訪氏の一族、高遠氏の居城でした。

戦国時代になると武田信玄が高遠を攻め、
7代当主・高遠頼継は降伏し、これ以降、高遠城は武田氏の城となります。

高遠城を押さえた武田氏は、天文16年(1547)に
足軽大将の山本勘助や、家老の秋山信友(虎繁)に命じ、
甲州流築城術による大規模な改築を行いました。
この改築により本丸をはじめ、空掘りによって区画された「後堅固」の城となりました。

永禄5年(1562)には信玄の庶子である武田勝頼が諏訪氏を継承し、高遠城主となります。

その頃、武田氏は隣国の織田氏や徳川氏と対立するようになっていきます。

元亀4年(1573)、信玄が持病が悪化し没すると、
天正3年(1575)、長篠の戦いでの大敗も重なり領内は動揺する事となります。

これらを踏まえて領国維持の為に天正9年(1581)、
勝頼は異母弟の仁科盛信にしなもりのぶ(信盛)を高遠城主とし、
織田の侵略に備えて新たに新府城を築城しました。

その翌年天正10年(1582)、
信長は武田氏を一気に滅ぼすために嫡男・信忠を筆頭に、
池田恒興いけだつねおき森長可もりながよし河尻秀隆かわじりひでたから5万の大軍を伊那に進軍させました。

高遠城へは森長可、河尻秀隆、団忠正だんただまさに、
明智光秀の軍も加わり、3万の兵が総攻撃を仕掛けました。

盛信は降伏勧告を断固拒否し3000の兵を従えて高遠城に籠りました。

圧倒的な戦力差を前にしても徹底抗戦を決めた盛信らの士気は高く、
それに対して織田軍も信忠自ら柵を破り、塀の上から軍勢を叱咤したとも言われており、
戦いは熾烈を極めました。

盛信と共に高遠城の守りについていた副将・小山田昌行おやまだまさゆきや、
女ながらも刀を取って戦ったという諏訪勝右衛門の妻など、
武田軍の奮闘を伝える逸話もいくつか残っていますが、
松尾城城主・小笠原信嶺おがさわらのぶみねの寝返りもあり、高遠城は一日で落城しました。

この戦いにより城主の盛信、副将として参陣していた小山田昌成おやまだまさゆき・大学助兄弟も自害しています。
さらに500余りの将兵も自決したといわれています。

そして高遠城の落城からまもなく、小山田信茂の裏切りにより、
勝頼も天目山で自害して、ここに武田氏は滅亡しました。

ちなみにこの高遠城の戦いで自害した仁科盛信ですが、
その娘・松姫と攻城軍の織田信忠は元婚約者同士で、
この戦いは悲劇の戦いとして知られています。

武田信虎の生涯

戦国最強の甲斐の虎と恐れられた武田信玄の父・信虎もまた、
一代で甲斐を平定した名将でした。

暴君、悪行で追放された、そんなイメージがあるけどどんな人だったんだろう?

詳しくは個別で記事も書いています。

絹本著色武田信虎像(武田信廉画、大泉寺蔵)
絹本著色武田信虎像(武田信廉画、大泉寺蔵)

信虎は、代々甲斐国の守護であった武田家の17代当主・武田信縄の嫡男として誕生しました。

その後14歳で家督を相続すると、
15歳の時に叔父・信恵を破り、父の代から続く内紛を収めます。

その後は今川氏や北条氏とも対立しながらも、
甲斐内外の争いを次々と制して、甲斐を平定していきます。

しかし信虎の拡大戦略による軍事的負担は、
国衆や農民らに負担を強いる事となり、
とうとう天文10年(1541)、嫡男・武田信玄により追放されてしまいます。

『甲陽軍鑑』には信虎の悪行の数々が記録されており、
人々はこの世代交代を喜んだといいます。

こうして行き場を失った信虎は、娘婿である今川義元のもとに身を寄せ、
強制的に隠居させられることになったのです。

駿河での隠居後の暮らしは、武田家から膨大な隠居料を与えられ、
京へ上るなど悠々自適の生活を送ったと思われます。

そして天正2年(1574)、三男・信廉の居城である高遠城に身を寄せ、
同年に81歳の時で死亡しました。

信虎の葬儀は、信虎が創建していた大泉寺で執り行われ、遺骸もここに埋葬されたといわれています。

現在も境内の信虎の霊廟の後ろに武田信虎の墓があります。
墓は3つ並んでおり、真ん中が武田信虎で、両端は信玄と勝頼の墓だそうです。

徳政令

『勝山記』によると、享禄元年(1528)、
信虎は甲斐一国内を対象とした徳政令を発しています。
この徳政令は東国の戦国大名が発令した初めての事例として注目されています。

しかし当時は土一揆なども起きていないことから、
災害への対応のために発令したものではないかと考えられています。

領民を顧みない暴君ではなさそうだよね。

絵島(江島)生島事件

江島生島事件は、江戸時代に世間を騒がせた大奥スキャンダルとして有名です。

正徳4年(1714)、7代将軍・徳川家継の生母・月光院に仕える、
御年寄・江島が上野・寛永寺、芝・増上寺へ前将軍・家宣の墓参りに行った際の事です。

増上寺の帰りに供の者たちと山村座に寄り、歌舞伎役者の生島新五郎の芝居を見た後、
続いて宴会が開かれました。

そこで江島は宴会に夢中になり酒に酔って大奥の門限に遅れてしまいました。

このうわさはすぐに広がり、評定所が審理する事となりました。

当時の大奥には、前将軍家宜の正室・天英院と7代家継の生母で、
側室・月光院を中心とする2つの勢力がありました。
そしてそれぞれと親しい幕閣同士による権力闘争が繰り広げられていました。

通説では、このような背景により、
天英院派の幕閣による謀略が働いていたとされています。

この件により関係者は徹底的に調べられ、
それにより大奥の規律の緩みが次々と明らかにされ、
江島は生島との密会の容疑で、死刑の判決を下されます。

後日この事は江戸城中に知れ渡り、
大奥の風気が乱れているとして、子どもを含め1500人が連座となりました。

新五郎と芝居小屋関係者数人は、三宅島への遠島となり、
江島の義兄・白井平右衛門は監督不行き届きとして死罪となっています。

江島は月光院の嘆願によって、死刑を免れるところとなりましたが、
高遠藩主・内藤清枚・頼卿父子に預けられ、囲屋敷で27年幽閉された後、
寛保元年(1741)に61歳で生涯を閉じました。

伊那市立高遠町歴史博物館の敷地内には、
江島が幽閉された囲み屋敷が復元公開されています。

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見どころ

タカトオコヒガンザクラ

高遠城のタカトオコヒガンザクラ
タカトオコヒガンザクラ

この桜は、廃藩置県で高遠城が取り壊された後、
明治8年(1876)、城趾を公園として整備する際に、桜馬場にあった桜を植樹したのが最初です。

その後の補植は同一種類のものに限られ、
樹齢約130年の古木20本を含み合計で約1500本の桜の木あり、
桜の名所となっています。

このタカトオコヒガンザクラは「天下第一の桜」と称され、高遠城以外では
あまり見る事ができない品種です。

伊那市公式ホームページから毎年高遠さくら祭りの案内サイトを見る事ができます。
高遠さくら祭り2022

進徳館

画像準備中

高遠藩の藩校である進徳館は万延元年(1860)に設立されました。

進徳館開設時の藩主は、8代・内藤頼直です。
藩校としては、長野県下11藩の中でも遅い設立で、
設立当初は「三ノ丸学問所」と呼ばれていました。

長野県の藩校だと松代藩の文武学校が有名だね!


進徳館の玄関には、今でも林大学頭学斎の書による「進徳館」の額が掲げられています。
学問所の建物は三ノ丸内にあった家老の空き屋敷を利用し、改築して使用されていました。

対象年齢は8歳から25歳までで、藩士の子弟はほとんどが通学したといわれています。

廃藩置県により廃校となりましたが、
翌年の学制発布により小学校が設立されると、進徳館の建物が使用されました。

城郭検定対策

城郭検定マーク
  • 梯郭式平山城で、信玄の命により山本勘助らが整備した
  • 勘助曲輪という山本勘助の名にちなんだ名前の曲輪がある
  • 公園内の桜はコヒガンと呼ばれる種類
  • 桜が植えられたのは明治期
  • 高遠藩では洋式築城石工を積極的に育成していた為、龍岡城の築城の際は棟梁や石工を派遣した。
  • 江戸時代に甲州街道に置かれた内藤宿場は、当時の城主である内藤氏の屋敷の土地の一部を使って開かれた。
  • 内藤氏の時代に藩校・進徳館が設立された。
  • 進徳館は昌平坂学問所の林学斎によって命名された。

江戸~明治頃が出題傾向にあるよ!

周辺情報

伊那市立高遠町歴史博物館

画像準備中

古代、中世から現代に至る高遠の歴史、文化、人物、民俗などに関する展示がされています。
また、江島が幽閉された囲み屋敷も復元公開されています。

伊那市公式ホームページ高遠町歴史博物館 利用案内

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