【築城名人】明智光秀の生涯、どんな人?/城一覧&周山城に見る築城の特徴

akechi 築城名人図鑑
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日本の城郭築城名人として、黒田官兵衛、加藤清正、藤堂高虎の三大築城名人は非常に有名ですが、
実はその他にも築城技術を評価されていた武将がいました。

明智光秀もそのうちの一人です。

信長と親交の深かった宣教師のルイス・フロイスは、
光秀を「築城について造詣が深く優れた建築手腕の持ち主」と記録しているのです。

明智光秀といえば主君・織田信長を討った謀叛人のイメージが強い一方で、
丹波統治においては善政を行い領民に慕われた大名でもありました。

そして周山城、坂本城、亀山城、福知山城などを築城した事でも知られています。

そんな光秀の生涯と、築城した城・かかわった城一覧、築城の特徴などをまとめました♪

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明智光秀の生涯

不明な点の多い前半生

明智光秀の出自や青年期には不明な点が多くはっきりとはわかっていません。

光秀の父・明智光綱あけちみつつなは明智城主で、斎藤道三に仕えていましたが、
光秀誕生時点では文献などに登場するほどの家柄ではなかったようです。

美濃多羅城で誕生し、明智城を居城とした光秀ですが、
天文13年(1544)、17歳の時に加納口の戦いに参戦したのが初陣と考えられています。

斎藤道三の稲葉城を織田信秀が攻めた戦いだね!結局織田軍を追い返したんだよね。

弘治2年(1556)斎藤道三と斎藤義龍さいとうよしたつの内紛により明智城が陥落、道三が討ち死にすると、
光秀は国を追われ、2年ほど流浪の身となります。
この間に室町幕府将軍・足利義輝に仕えたとも言われています。

そして永禄の政変の後主君を失った光秀は越前の朝倉義景に仕える事となりました。
数年下級武士として朝倉家に仕えた光秀でしたが、
朝倉家を去ると続いて足利義昭の足軽衆となります。

義昭は上洛の為に後ろ盾を得ようと周辺の有力武将を頼り、
その際に義昭に命じられ、織田信長のもとへ協力を要請しに行ったのが光秀だったそうで、
それがきっかけとなって信長の家臣も兼任するようになったと考えられています。

元亀争乱の中で、浅井長政の裏切りによって信長が危機に陥ると、
金ヶ崎の退き口と呼ばれる撤退戦で、豊臣秀吉と共に殿しんがりを務めた事が評価され、
宇佐山城を任されることとなり、
光秀は信長の元で飛躍的な出世を重ねる事になります。

元亀争乱については福知山城の個別記事でもご紹介しました♪

その後比叡山延暦寺焼き討ちや丹波の攻略を経て、
ついに丹波一国29万石と、近江の領地と合わせておよそ35万石ほどの大名へと成りあがります。

出自も定かではないほど低い身分であったと思われる光秀ですが、
数々の戦に参戦し、信長の重臣として名をあげたわけですね。

ところが天正10年6月2日(1582年6月21日)、
本能寺の変を起こし、織田信長に反旗を翻します。

光秀謀反の理由については現在も様々な議論が交わされ、
研究されているところで、判明していないため今回は割愛します。

頑張って働いてきてたくさん領地ももらえたのになんでだろう?

6月13日(7月2日)、本能寺の変をうけて、
備中高松城攻めから引き返してきた羽柴秀吉の軍と光秀の軍勢が、
山崎から勝龍寺城一帯で、激突することとなりました。

そして天王山の戦い(山崎合戦)と呼ばれるこの戦いで、
光秀は敗戦し、生涯を終えたのでした。

また愛妻家でも知られた光秀には、『明智軍記』によると3男4女、
『鈴木叢書』所収の「明智系図」によると側室の子も含めて6男7女の子供がいたとされていますが、
山崎合戦後に坂本城で光秀の妻子は殺害されたようです。

しかし細川忠興の妻となった光秀の娘・玉(細川ガラシャ)のように、
全員が処刑されたわけではなく、光秀の子孫と伝わる家は複数系統あようです。

補足

二大勢力が争っているときに、有利な方へ味方しようと日和見することを「洞ヶ峠(ほらがとうげ)」、正念場や運命の分かれ目のことを「天王山(てんのうざん)」、極めて短い期間のみ絶大な権力を握ることを「三日天下(みっかでんか)」といい、これらはいずれもこの山崎の戦いに由来する成句だと考えらえれています。

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かかわったとされる城一覧

時期所在地100名城選定状況内容
元亀4(1573)坂本城滋賀県築城
天正6(1578)頃丹波金山城兵庫県築城
天正6(1578)亀山城京都府築城
天正6?(1578)
もしくは天正9(1581)
大溝城滋賀県縄張り
天正6(1578)宮津城京都府縄張り補助?
天正年間?八上城兵庫県改修?
天正年間?黒井城兵庫県続日本100名城改修?
天正7(1579)福知山城京都府続日本100名城改築
天正8(1580)周山城しゅうざんじょう 京都府築城

安土城の築城より前に小天守と大天守を持つ坂本城を築き上げ、
丹波・若狭攻略の拠点として複数の城を短期間で築城した事から、
築城の名手と呼ばれる所以がうかがえます。

また坂本城はルイス・フロイスによると、
安土城に次ぐ豪壮華麗なもの、と記されており、
こうした立派な城を築城した事が評価されているのでしょう。

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光秀の建築の特徴

海や川を生かした縄張

当時はまだ山城形式の城が主流の時代でしたが、
光秀は坂本城においては琵琶湖、亀山城では保津川、福知山城では由良川と、
湖や川を利用した築城をしています。

細川藤孝と明智光秀によって築かれたと考えられている宮津城もまた海城です。

光秀が建築のための材木を河原尻村から保津川端まで移送するように要請した書状も発見されており、物流の重要性にいち早く気付いていたのではないでしょうか。

短期間で築城

丹波攻略開始後の天正6年(1578)から天正8年(1580)までの間に、
金山城、亀山城、福知山城、周山城と4城もの城を手掛けています。

天正5年(1577)、丹波攻略を再開した光秀はまず、
亀山城を急ピッチで築城します。

丹波攻略を開始した頃は坂本城から出陣していましたが、
亀山城築城後は、丹波攻略の拠点として利用されました。

さらに続いて翌年、黒井城の赤井氏が密かに八上城の波多野氏へ物資援助などを行う事ができないように、
両城を結ぶ位置付近に金山城を築きました。

その後丹波を平定すると天正7年(1579)頃には福知山城を築城します。
その間に織田信澄の大溝城築城の際には縄張りを担当し、
細川藤孝の宮津城築城の補助をこなしたと言われています。

そして天正8年(1580)、光秀の集大成ともいえる周山城を築城します。

どうしてこんなに次々と城を作れたんだろう?

かかわった城一覧で見た城で7城を紹介しましたが、
そのうち坂本城はほとんど遺構が残されておらず、
八上城や黒井城には光秀時代のものとみられる遺構はあるものの、
戦国の山城に少し手を加えただけと言えます。
亀山城と福知山城も、光秀の縄張り設計ではありますが、
その後の時代にも城として使われていた為、光秀の時代の縄張りがほとんど残されていないようです。

しかし周山城は光秀による縄張りや石塁が非常に良く残されています。

周山城の特徴を見ていくと、総石垣の大規模な山城で、井戸や天守台跡を確認する事ができます。
さらに特徴的なのが、2本の堀切を挟んで約350メートル離れたところに、
別に土づくりの城が存在しています。

いずれも細長い形状をしており、居住スペースは麓にあったと考えられます。

このように城域には軍事施設をメインで配置したり、主要部分以外を土造りにする事で、
竣工までの期間を短縮する事に繋がっているのかもしれません。

さらにこの時代の石垣といえば野面積みで、周山城や他の光秀の城でも野面積みの石垣を見る事ができますが、
光秀の本拠であった近江の坂本近郊には、穴太衆と呼ばれる石工集団がおり、
非常に高い技術を持っていました。
穴太衆は安土城の石垣なども手掛け、以降は日本中の多くの現場で指揮をとりました。

こうした石積みの技術もまた、光秀が築城を得意とした一因かもしれません。

福知山城の転用石なんかも、光秀が築城速度を重視してた感じが伝わってくるね!

余談となりますが、亀山城は後に天下普請によって藤堂高虎による縄張りで改修されています。

まとめ

浪人生活や将軍の足軽衆を経て、織田信長の元で一国一城の大名へと成りあがった光秀でしたが、
本能寺の変で知られる政治クーデターを起こし、山崎合戦で豊臣秀吉に討たれて生涯を終えました。

ですがそんな謀反者のイメージとは裏腹に、善政を行い領民に慕われ、
連歌などにも通じた文化人でもありました。

そして、安土城に次ぐ豪華絢爛な城と言われた坂本城の築城や、
短期間に次々と城を手掛ける効率の良さなど、築城の名手としての一面も持つ武将でした。

光秀については知れば知るほど、なぜ本能寺の変を起こしたのかと謎が深まりますが、
これほど優秀な人物であれば何か深い考えがあっての事ではないかと想像せずにはいられません。


参考書籍

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